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カテゴリー「戊辰の足跡」の16件の記事

2018年9月11日 (火)

峠 最後のサムライ

 越後長岡藩の家老・河井継之助(1827年-1868年)の生涯を描いた小説「峠」(司馬遼太郎 1968年刊)が映画化され、2020年に公開される。「峠」はそれまで名前を知られていなかった河井継之助を世間に広めた作品。発刊以来54年間の累計発行部数は300万部以上にのぼるという。

 映画の監督・脚本は、数々の黒澤明監督作品に携わり、監督としても名作を撮っている小泉堯史氏。河井継之助を演じるのは役所広司。彼は2011年公開の映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」で山本五十六を演じている。

 キャストは他に(役所広司と師弟関係の)仲代達也、田中泯、香川京子ら。そして永山絢斗、渡辺大、東出昌大という“新潟県にゆかりある”若手俳優もキャスティングされている。

 河井継之助を紹介する文に「惻隠」(そくいん)という言葉が出てくる。「かわいそうに思うこと、同情すること」の意味を持つ言葉。この映画の制作が決定されたのは嬉しいニュースだが、今年公開とならなかったのは残念ことでもある。それは今年が戊辰戦争終結後150年、河井継之助没後150年、「峠」刊行後50年と節目がそろう年であることがひとつ。そして、「惻隠」とは真逆の思想が横行している世の中に問いかけることができただろうという思いがひとつ。

 惻隠の反対語は忖度(そんたく)ではないか?と思う。

    http://kasa.air-nifty.com/blog/cat24082190/index.html

2018年6月20日 (水)

河井継之助記念館(長岡市)

 河井継之助記念館を紹介する文中に「惻隠」(そくいん)という言葉が出てくる。「かわいそうに思うこと、同情すること」の意味を持つ言葉。

 記念館は長岡市の市制100周年と市町村合併記念事業として河井家の生家跡に整備された。幕末の長岡藩政を担い、逝った継之助が記した西国遊歴の旅日記「塵壺」(ちりつぼ)、彼が主人公として描かれた司馬遼太郎の小説「峠」の原稿などが展示されている。  

Img_20171108_144118  Img_20171108_144222

 河井継之助記念館は平成18年(2006年)12月27日に開館。継之助の死(1868年)から138年間を要した。福島県只見町の記念館よりも歴史が浅いのは、長岡の町と人にとって、継之助が後生に及ぼした「負の遺産」によるところが大きかったのだろう(写真は昨秋のもの)。

 「惻隠」 とても良い言葉。

 河井継之助記念館 長岡市長町1丁目甲1675-1 開館時間:10時~17時

2018年1月13日 (土)

青いタテガミ

Img_20171004_141144 戊辰北越戦争で敗走した河井継之助につき添い、河井の死まで行動を共にした外山脩造(1842年12月11日ー 1916年1月13日)102回目の命日。脩造は日本銀行大阪支店の初代支店長、アサヒビール等の創業に関わり、阪神電鉄の初代社長を務める等、関西財界の礎を築いたといわれる。

 彼は少年時代、井上五蔵の私塾「青鬣館」(せいりょうかん)で学んだ。ここで少年時代の長谷川泰(済生学舎 = 日本医科大 創立者)と同級生だった。

 「鬣」 とはたてがみのこと。井上五蔵は耳取村(見附市耳取町)の庄屋に生まれ、長岡藩校崇徳館で学んだ。崇徳館は追廻橋の北詰め、現在の「ビジネスホテル崇徳館」がある場所にあった。耳取村から崇徳館までは直線距離で10㌔。五蔵は3里の道を通っていたことになる。父の跡を継ぎ、耳取村の庄屋役を務め、村の治水・新田開発に尽力した。晩年に父の私塾「青鬣館」を継ぎ、外山脩造(栃尾市小貫生まれ)や長谷川泰(長岡市福井生まれ)などの人物を輩出した。

 明治42年に建立された顕彰碑には2人の名前も刻まれている。碑文は八文字 「 井 上 五 蔵 光 座 上(または石) 塚 」と読むのだろうか。“青いタテガミ”と名付けた私塾を興した父・井上忠右衛門と五蔵は親子揃って顕彰されるべき。

 井上五蔵の碑  見附市耳取町(耳取集会所前)

2017年10月 9日 (月)

林修講演会の聴講を逃す

Img_20171009_105205 UX新潟テレビ21が主催する「峠」王プロジェクトは、司馬遼太郎の時代小説「峠」の主人公である河井継之助と、彼が生きた幕末・戊辰戦争の歴史をクイズにして峠王を決めるというもの。

 TVのCM「いつやるか?今でしょ!」をきっかけに発掘され、ブレイクした林修氏が、この地方局制作番組のMCを務めている。昨年、第一回が開催され、今年二回目を迎えた。関連する講演会が長岡で開催されるというので楽しみにしていたが、聴講の抽選に漏れてしまった。

 林修氏の本業は予備校講師(東進ハイスクール国語科専任講師)だが、現在では多数のテレビ番組で司会やレギュラーを務める売れっ子タレント。林氏はテレビを観ていて全く嫌悪感を感じず、むしろ親近感を持ってしまう数少ない人物。その理由は大きく3つある。①趣味が競馬であること ②河井継之助が好きと公言していること ③「ドラマと選挙と同窓会には出ない」等、彼の感覚に共感できるからだ。

 林氏に高学歴者(東京大学卒)の嫌みがないのは閉鎖的な金融機関でのサラリーマン生活、予備校講師という、やや特殊な職業を経験してきたことが影響していると思う。一方、予備校の授業では生徒の興味を惹く知的な“ネタ”をもって“舞台”に立ち続けたことは、彼がテレビタレントとして活躍する基礎を作ったといえる。実際、「魅力的な授業をするため落語やお笑い番組を参考に話術の勉強をした」と語っている。また、「予備校の授業は商品。講師は商品の品質管理に万全を尽くして取り組む。生徒は予備校という教育機会を与えてくれた両親に感謝すべきで、講師への感謝は不要」とも述べている。あるいは「日本人として過去の過ちを含めきちんと学びながら、正しい歴史認識を持たせるため、日本史を受験の必修科目にすべき」と述べる等、これらの“健全な平衡感覚”が彼の魅力だと思う。

 最近、世の中では「反薩長史観」がブームになっている。歴史は勝者が作るもの。明治維新で中心的役割を果たした薩摩藩・長州藩側からの歴史観が定説とされ、歴史教育でもずっとそれが教えられてきた。来年は明治維新150年にあたり、NHKの大河ドラマも西郷隆盛が主人公だ。150年は維新の立役者に譲るとしても、152年目あたりにはバランスを取る意味からも反薩長史観(旧幕府側)からの物語として、河井継之助が抜擢されるかもしれない。

 林氏は勝者や多数派が必ずしも正義ではなく、敗者だからといって世間に媚びる必要がないことをわかっている。そして、そのことを取り立てて大声で喚くこともない。スマートな紳士であり、優れた知識人だ。

2017年6月 7日 (水)

長岡城 本丸跡・二の丸跡(長岡市)

Dsc_0724 ブログを再開したのが昨年の6月8日。今日が第365回ということになる。

 長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、西軍(薩長軍)に抵抗した。新政府軍を“戊辰戦争において最大の苦境”に落とし入れた。しかし、新発田藩の裏切りによって形勢は一変。八丁沖作戦で長岡城を奪還し、新政府軍に一矢報いた長岡藩だったが、4日後の7月29日(新歴9月15日)に城は再び陥落。この戦いで傷を負った河井継之助らは八十里峠を越えて会津へ落ち延びた。継之助と共に八十里越を越えて会津へ落ちた藩士の中に、外山脩造がいた。

   「八十里 腰抜け武士の 越す峠」  河井継之助

 長岡城はそのほとんどを焼失したが、焼け残った橋や門は売却され、一部は教育費に充てられたという。その後、城跡地は公園の役割を果たしていたが、1898年本丸跡に鉄道の長岡駅が開業した。二の丸跡は1902年に宝田石油(現在の新日本石油の前身)本社、1926年に長岡市公会堂、1958年に長岡市厚生会館と変遷し、2012年に現在の長岡市シティホールプラザアオーレ長岡になった。長岡城の本丸、二の丸、門、櫓、そして内堀などの遺構は失われた。アオーレ長岡の議場脇に「長岡城址の碑」(写真)が設置されている。

2017年6月 6日 (火)

八丁沖古戦場(長岡市)

 長岡城を奪われた長岡藩は1868年7月24日(旧歴)、「八丁沖渡沼作戦」を実行し、長岡城を奪還する。八丁沖は八町潟とも呼ばれていたらしく、沼沢地(しょうたくち)・湿地帯であり、渡沼は不可能と思われていた。河井継之助率いる長岡藩兵はこの八丁沖を、全軍が声をひそめて潜行、長岡に攻め込み、長岡城を奪回した。

 八丁沖は干拓され、現在は水田になっている。富島地内に石碑(1988年・昭和63年建立)が置かれ、「八丁沖古戦場パーク」として整備されている。

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 八丁沖古戦場 長岡市富島町 国道8号長岡東バイパス 亀貝北インターから1㌔

2017年6月 5日 (月)

大黒古戦場(長岡市)

 北越戦争の開戦当初、長岡藩は新政府軍と互角に戦った。しかし、兵力に劣る長岡藩は徐々に押され、新政府軍の奇襲によって長岡城を奪われ、栃尾に退却した。長岡藩は加茂で態勢を整え、今町の戦いを制す等、逆襲に転じた。この時期、東軍と西軍が陣を置き、せめぎ合っていた場所が、現在の「大黒古戦場」周辺。長岡市の北東部にあたる。

 2012年5月、ここに「北越戊辰戦争伝承館」が開館した。北越戦争は戊辰戦争における最激戦の戦闘と言われる。戦争の遺品のみならず、郷土の歴史や偉人、そして農民の暮らしについて展示される貴重な施設になっている。隣接する大国主神社地内には大黒戦死者供養塔が、また、八丁沖方面を見渡す場所に戊辰戦蹟記念碑、大黒古戦場碑がある。

 大黒古戦場碑 碑文 慶応四年(西暦1686年)の夏、このあたりは戦場となった。長岡・会津・米沢藩兵らの奥羽越同盟軍と、薩摩・長州藩兵らの新政府軍との間で、幾度も激闘がかわされた。武士たちは泥田を潜行し、敵の保塁を襲い、あるいは闇夜に乗じて、奮戦した。付近の村々は、戦いのために焼かれたが、人びとは、その勇戦を讃え、碑を建てた。

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 戊辰戦蹟記念碑は1937年(昭和12年)建立のようだ。朝日山・浦柄神社の「戊辰戦蹟記念碑」は1941年(昭和16年)の建立だった。いずれも山本五十六海軍中将(当時)の揮毫。同じ戊辰戦蹟の記念碑だが、書体は若干異なっているように見える。

 大黒古戦場・北越戊辰戦争伝承館 長岡市大黒町39番地2

  http://www.museum.city.nagaoka.niigata.jp/facilities/boshin/

2017年6月 4日 (日)

朝日山古戦場(長岡市)

 朝日山という名がついた山は全国各地にある。この山も小千谷市の北東にあり、朝日が昇る。

 小千谷市浦柄(うらがら)地区は、旧国道17号の浦柄橋、妙見メモリアルパーク(バス停「浦柄三叉路」)から上越線の下をくぐると集落の入口に出る。ここは2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震で大規模土砂災害による甚大な被害を受けた地域でもある。

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 1 朝日山入口にあるトレッキングマップ 3時間40分のコースが例示されている  2 浦柄神社から東(山古志)方面。最奥には上越新幹線のトンネルが通っている  3 浦柄神社から西方面。最奥には信濃川

 集落を一見した限り、地震の爪痕を見つけることはできなかった。朝日山古戦場の案内板に従って山に向かっていく。細く、急な坂道だが、途中、至る所が新しく舗装された道であることに多少の違和感を持ちながら進む。しばらく行くと、その道が2016年に改修・整備されたことを記す記念碑が立っていた。それを見てようやく、地震の被害は古戦場に続く道路にも及んでいたことに気づいた。浦柄から徒歩で約40分。自動車で約10分(道は細い急坂なため軽自動車に限る)。山頂には数台の駐車スペースがあった。休憩展望所には北越戦争関連の展示品と説明板があり、屋上は展望台になっている。

 1868年(慶応4年=明治元年)5月、小千谷談判決裂後、戊辰戦争において最大の激戦と言われる北越戦争で、東軍5千、新政府軍1万がおよそ1週間、雨中での死闘が続いたという(新暦では6月の梅雨時)。長岡藩が占拠していた朝日山への攻撃は、後の第3代・第9代内閣総理大臣 山県有朋が指揮をとったと伝えられる。  「あだ守る とりでのかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風」 山県有朋

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 1 朝日山休憩展望所  2 展望台から西南(小千谷市)方面  3 展望台から西北(長岡市)方面  

 麓の浦柄神社には、1941年(昭和16年)に建立された「戊辰戦蹟記念碑」、1953年(昭和28年)に建立された東軍(長岡藩・会津藩)戦死者の墓などがある。その中には白虎隊士(新国英之助 当時16歳)の墓もある。父親が遺体を探して二十数年の後、この地で建立されたという。

 1 「戊辰戦蹟記念碑」は山本五十六海軍大将の揮毫。海軍中将と刻まれている  2 朝日山殉難者墓碑の説明板  3 浦柄神社の奥にある忠霊塔や墓碑

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2017年6月 3日 (土)

榎峠古戦場(長岡市)

 長岡市妙見町にある「榎峠古戦場パーク」。1868年(慶応4年=明治元年)5月10日、戊辰戦争において最大の激戦と言われる北越戦争は、ここ榎峠が開戦の地となった。

 (現地案内板から引用) 「榎峠は北越戊辰戦争の古戦場である。この地は三国街道の難所として知られ、信濃川が断崖の下にあった。慶応4年5月ここ榎峠で東西両軍の激しい戦いがあった。はじめ西軍が榎峠を占領していたが、長岡藩兵らの東軍が奪いかえし、対岸の西軍陣地と砲戦を展開した。また、南方の街道上からも激しい攻撃があった。東軍が良く守ったため、戦いは朝日山に移っていった」

 「三国街道の難所として知られ、信濃川が断崖の下にあった」と案内板に記されている。史跡は旧国道17号沿いにあり、脇の山中を上越線が通っているが、当時は信濃川右岸と急峻な山に挟まれた隘路だったことが想像に難くない。同じ道沿いには中越大震災の崩落現場を整備し、献花台がある「妙見メモリアルパーク」がある。

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 榎峠古戦場パーク 長岡市妙見町 国道17号 妙見堰交差点から旧国道に入り1㌔

2017年5月17日 (水)

越後諸藩と三方領地替え

Img_20170518 三方領地替えは、江戸幕府が行った大名に対する転封処分、統制手法のひとつ。三方領地替えは何度も行われているが、そこには度々、越後諸藩が登場する。

 1649年 陸奥国白河藩主榊原忠次→播磨国姫路藩 姫路藩主松平直矩→越後国村上藩へ 村上藩主本多忠義→を白河藩へ転封 

 1741年 越後国高田藩主松平定賢→陸奥国白河藩 白河藩主松平明矩→播磨国姫路藩 姫路藩主榊原政純→高田藩へ転封 

 1840年 武蔵国川越藩主松平斉典→出羽国庄内藩 庄内藩主酒井忠器→越後国長岡藩 長岡藩主牧野忠雅→川越藩へ転封(この三方領知替えは庄内藩の天保義民事件や幕府の権力低下等により実現することはなかった)。

 転封(移封)は必ずしも不祥事の処分や幕府の統制とは言えない面もある。しかし、越後諸藩は雪深い土地。ある意味、これらの地が左遷の行き先となっていたことは否めない。

 雪国・越後・新潟に新幹線や高速道路という動脈を通し、経済という血を流すことで、旧越後諸藩を陽のあたる場所にしたのは田中角栄だろう。偉大で傑出した不世出の人物だ。