コロナ後の世界 1
メディア媒体もある意味、「コロナウイルスに感染」してしまい、「それ以外」を求めることが難しくなっている。
いやおうなしに、テレビコメンテーターの自論や解説を聞く(聞かされる)ハメになる。それを嫌って、ネットに逃げても、画面には彼らの発言が記事になっている。
F氏という比較的若手のコメンテーターがいる。彼は20代で政府や与党が設置する委員会や懇談会のメンバーに選ばれ、活躍している。現在も若年層の代表として各種の委員を務めている。
彼は度々、高齢のコメンテーターと意見が衝突する。意見の違いは議論であって好ましいが、年寄りコメンテーターというフィルターに向かって、その向こう側を批判する。年寄りが「誰かと何かを代弁している」のは確かだが、彼が委員を務め、メンバーを務め、報酬を得ている機関や組織そのものこそが、フィルターの向こう側にある。
彼は強いものと肩を並べたりはしない。彼は強いものと距離をとりながら、強者も弱者も攻撃する。羞恥心がない。だから、彼の話を聞いていると、度々「自分は年をとったのか?」と自問することになる。
彼の羞恥心は、彼なりに担保されている。彼は「誰の味方でもありません」という本を出している。彼は「誰の肩も持たない」のだという。そのことが、二枚舌、三枚舌、多重舌を可能にしている。それはつまり、「自分の肩は持つこと」を体現している。「誰の味方でもない」というが、それは「誰の肩も持つ」、「誰の味方にもなる」ことと逆説的に同義語だと思う。
1年前、東京大学入学式における、上野千鶴子・東京大学名誉教授の祝辞を掲載した。
http://kasa.air-nifty.com/blog/20190501.html (ウェブページ 2019.05「言葉の力」)
彼が上野教授の門下生だと知り、愕然とした。
これまでいくつもの病を克服してきた人類は、コロナウイルスを克服するだろう。しかし、彼や彼ら(彼の考えに同調する人や彼を使うメディア)が中心となって構成する社会は「病」を克服できないだろう。
誰の肩も持たない社会は、必ず格差を助長させる。