三宅一生氏と父の縁
2022年8月5日 ファッションブランド「Issey Miyake」を世界的なブランドに成長させた服飾デザイナーの三宅一生氏が亡くなった。84歳。
三宅氏の生涯、輝かしい功績についてはここに記す必要もない。ただ、三宅氏とわずかな縁を持っていた父とのエピソードを記して追悼したい。
父は職業人としてのほとんどを繊維産業に携わった。1970年代。まだ繊維産業が隆盛だった頃。父は会社から命令を受ける。「(取引先の)住友商事の営業と一緒に三宅というデザイナーを案内してやってくれ」と。夏の暑い日だったと聞いた。
父は三宅という人がデザイナーとしてどんな人物なのか、全く知らなかった。父は当時のマイカー「日産サニー・バン」に二人を乗せて、市内・県内の繊維会社と産地を案内した。この1泊2日の視察旅行の顛末を聞き、デザインの本質に関するエピソードではないが、デザイナーの本質を示すエピソードとしては十分だと思った。
1.当時の車にはクーラーがなかった(だから自分は夏に車に乗るのが嫌だった)が、新進気鋭のデザイナーである彼、三宅氏は文句ひとつ言わず、その車で父の案内を受けた。
2.宿泊先はイタリア軒(今も新潟市で営業する老舗ホテル)。古町で食事をとっていた際、ファッションに詳しい女性2人から声をかけられた。「すみません。三宅一生さんですか?」と。父は彼女たちが三宅氏を知っていた(新進気鋭のデザイナーと認識されていた)ことに驚いたという。
3.父は二次会の場所として、横に女性が付くような店を打診したところ、彼は「いえ。私はそういう店は結構です」とし、落ち着いたバーやラウンジのような店を希望した。
4.三宅氏は父に「次は新潟県の北部・村上市の山辺里織(さべりおり)を見学したい」と告げて、視察は終了した。
【山辺里織は新潟県村上市山辺里で織られる絹織物で、寛政(1789~1800)の末、越後藩主内藤候は、家臣の婦女子の内職として、手織機を貸し与え、機織りに詳しい小田伝右衛門光貞に織り方伝授係を命じた。これにより、紬(つむぎ)織り、竜紋、斜子(ななこ)白生地を織ったのが始まり。1816年(文化13年)には、京都から織り師を招いて袴(はかま)地を織り出したのが「山辺里平(さべりひら)」。明治時代末から方向転換し、紳士服の袖裏地も織り出して人気となった。この地を流れる門前川の水質が、精練、染色に適していた。現在も裏地、袴地と織られている】
これは蛇足だが、父の立場からすれば、父の顧客は住友商事であり、三宅氏ではない。三宅氏は商社と取引関係にあるが、商社の担当者はこの視察に関する費用のほとんどを父の会社負担としたことが強く印象に残っていると言っていた。
三宅氏を追悼する記事で「和紙や籐など、さまざまな種類の生地や素材を服に使うことにこだわっていた。三宅氏は母国(日本)からインスピレーションを得て、伝統的な日本の生地とデザインを多用し、折り紙など、日本の工芸品や図案にオマージュを捧げたデザインも多い 」とある。これらの評価は父が語ったエピソードから偽りない事実だろう。
父と三宅氏が並んで撮った記念写真がある。三宅氏よりも1つ年上の父は、まだまだ存命だ。