2023年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

カテゴリー「見附市」の34件の記事

2022年8月14日 (日)

三宅一生氏と父の縁

 2022年8月5日 ファッションブランド「Issey Miyake」を世界的なブランドに成長させた服飾デザイナーの三宅一生氏が亡くなった。84歳。

 三宅氏の生涯、輝かしい功績についてはここに記す必要もない。ただ、三宅氏とわずかな縁を持っていた父とのエピソードを記して追悼したい。

 父は職業人としてのほとんどを繊維産業に携わった。1970年代。まだ繊維産業が隆盛だった頃。父は会社から命令を受ける。「(取引先の)住友商事の営業と一緒に三宅というデザイナーを案内してやってくれ」と。夏の暑い日だったと聞いた。

 父は三宅という人がデザイナーとしてどんな人物なのか、全く知らなかった。父は当時のマイカー「日産サニー・バン」に二人を乗せて、市内・県内の繊維会社と産地を案内した。この1泊2日の視察旅行の顛末を聞き、デザインの本質に関するエピソードではないが、デザイナーの本質を示すエピソードとしては十分だと思った。

1.当時の車にはクーラーがなかった(だから自分は夏に車に乗るのが嫌だった)が、新進気鋭のデザイナーである彼、三宅氏は文句ひとつ言わず、その車で父の案内を受けた。

2.宿泊先はイタリア軒(今も新潟市で営業する老舗ホテル)。古町で食事をとっていた際、ファッションに詳しい女性2人から声をかけられた。「すみません。三宅一生さんですか?」と。父は彼女たちが三宅氏を知っていた(新進気鋭のデザイナーと認識されていた)ことに驚いたという。

3.父は二次会の場所として、横に女性が付くような店を打診したところ、彼は「いえ。私はそういう店は結構です」とし、落ち着いたバーやラウンジのような店を希望した。

4.三宅氏は父に「次は新潟県の北部・村上市の山辺里織(さべりおり)を見学したい」と告げて、視察は終了した。

【山辺里織は新潟県村上市山辺里で織られる絹織物で、寛政(1789~1800)の末、越後藩主内藤候は、家臣の婦女子の内職として、手織機を貸し与え、機織りに詳しい小田伝右衛門光貞に織り方伝授係を命じた。これにより、紬(つむぎ)織り、竜紋、斜子(ななこ)白生地を織ったのが始まり。1816年(文化13年)には、京都から織り師を招いて袴(はかま)地を織り出したのが「山辺里平(さべりひら)」。明治時代末から方向転換し、紳士服の袖裏地も織り出して人気となった。この地を流れる門前川の水質が、精練、染色に適していた。現在も裏地、袴地と織られている】

 これは蛇足だが、父の立場からすれば、父の顧客は住友商事であり、三宅氏ではない。三宅氏は商社と取引関係にあるが、商社の担当者はこの視察に関する費用のほとんどを父の会社負担としたことが強く印象に残っていると言っていた。

 三宅氏を追悼する記事で「和紙や籐など、さまざまな種類の生地や素材を服に使うことにこだわっていた。三宅氏は母国(日本)からインスピレーションを得て、伝統的な日本の生地とデザインを多用し、折り紙など、日本の工芸品や図案にオマージュを捧げたデザインも多い 」とある。これらの評価は父が語ったエピソードから偽りない事実だろう。

 父と三宅氏が並んで撮った記念写真がある。三宅氏よりも1つ年上の父は、まだまだ存命だ。

2018年5月27日 (日)

大黒製パン(見附市)

201805261 見附市の商店街に新たな店舗の開店が相次いでいる。10日ほど前の地方紙に取り上げられていたので、その記事の表現を借りる。「本場のフランスパン屋」、「昔懐かしいコッペパン屋」、そして「アンティーク雑貨屋」の3店。

 このうち「昔懐かしいコッペパン屋」というのが「大黒製パン」。大黒様をあしらったロゴが目を引く。とてもキャッチーで老若男女に親しみやすい。電話番号にもこだわりが見える。 品揃えはコッペパンと食パンのみと聞いていたが、コッペパンの具材の種類は惣菜系を含めると10種類以上ある。どの種類も1度食べてみたくなる。王道のバタークリームは近隣にも有名店がいくつかあるが、それらに充分に太刀打ちできるもの。食パンは柔らかいだけのものではなく、旨味がある。そのままでも美味しいが、たっぷりとバターを塗って食べたくなる。野菜や卵やベーコンを挟む必要はない。

 既に人気店になっており、来店客の足が絶えないようだ。しかし、長く営業し続けることを願うばかり。今は寂れた商店街に、かつては「見附センター」や「ダイマゴ」、「ボン・オーハシ」、「しらさぎレコード」…などがあった。これらの店は市民全員が知っていたと言っていいだろう。商店街のバトンを繋ぎ、市民の認知度100%のパン屋を目指して欲しい。

 大黒製パン 見附市本町1-1-36 ℡0258-62-8808 営業時間:7時~18時半 定休日:水曜

2018年4月 5日 (木)

PICTO(見附市)

20180401 見附市は商店街の活性化策と創業支援策が充実しているのだろう。先週末、新町商店街に焼きたてパンとカフェの店 PICTO(ピクト) がオープンした。

 店のサインボード(写真)にはBoulangerie(ブーランジェリー)、Sandwicherie(サンドウィッチリー)と記されている。レジ脇に置かれたショップカードにはPatisserie(パティスリー)、Viennoiserie(ヴィエノワズリー)の文字もある。

 ブーランジェリーは「職人が小麦を選び、小麦粉をこね、パンを焼き、その場で売る店」のこと。フランスでは一種の称号にあたる。サンドウィッチリーというのは聞いたことがないが、おそらく「食材を選定し、アレンジし、その場で売る店」という意味なんだろう。店名の PICTO というのは Pictogram = 絵文字・視認記号の意味だろうか。

 寂れた商店街の“PICTO”になり、長い時間、市民と顧客に愛される店になるといい。

 PICTO(ピクト) 見附市新町1-17-25 ℡0258-86-8924 営業時間:8時~18時 定休日:水曜

2018年2月20日 (火)

綾通し(あやどおし)

20180201 先月、母親を助手席に乗せて隣町まで運転した。母は座席に座るとダッシュボードが障害になってボンネットの先が見えない。バックモニターがついていることも知らないので、前進、後退、右折、左折、それぞれの場面で口うるさいほど注意する。母の身長は150㎝のはずだが、年をとって縮んだのかもしれない。大きな猫のように背中を丸めた姿は、ずっと以前にどこかで見たような気持ちでいた。

 タイミング良く、戦後途絶えていた「亀田縞(かめだじま)織物が復活」というニュースを見て、母親が背中を丸めて「綾通し」(あやどおし)をしていた姿を思い出した。

 見附は繊維産業の町。十日町、五泉、亀田、栃尾などと並んで織物の産地だった。1970年代、既に繊維産業は衰退・縮小傾向にあったが、それでも町中を走るたいていの車は「いとへん」(繊維産業のこと)に関わるものだった。就労者の7~8割はその業界に従事していたのではないか。

 自分の家もそうだった。父は織物商社、母親は家で綾通しの内職をすることが多かった。綾通しは糸を綜絖(そうこう)という針金のようなものの真ん中にある小さな穴(ヘルド)にタテ糸を通す作業のこと。平織りの場合は綜絖が2枚以上、綾織りの場合は3枚以上要する。綾通しの作業は細かく、熟練の技が必要だ。母は1日の大半を茶の間の入り口に設けた作業スペースで過ごしていた。出来高制だから母は懸命に糸を通したが、それでも1日に2千円稼げたかどうか。後ろに石油ストーブを置き、座布団に座り、膝掛けをかけ、何時間も「カチャ、カチャ」と糸を通す作業を続けていた。綾通しをする母の背中はいつも丸まっていた。

    http://kamedajima.com/    亀田縞を復活させた中営機業のHP

    http://takumidream.com/    経糸を綜絖に通す「綾通し」 ㈱匠の夢のHP(写真は同社HPから)

2018年1月13日 (土)

青いタテガミ

Img_20171004_141144 戊辰北越戦争で敗走した河井継之助につき添い、河井の死まで行動を共にした外山脩造(1842年12月11日ー 1916年1月13日)102回目の命日。脩造は日本銀行大阪支店の初代支店長、アサヒビール等の創業に関わり、阪神電鉄の初代社長を務める等、関西財界の礎を築いたといわれる。

 彼は少年時代、井上五蔵の私塾「青鬣館」(せいりょうかん)で学んだ。ここで少年時代の長谷川泰(済生学舎 = 日本医科大 創立者)と同級生だった。

 「鬣」 とはたてがみのこと。井上五蔵は耳取村(見附市耳取町)の庄屋に生まれ、長岡藩校崇徳館で学んだ。崇徳館は追廻橋の北詰め、現在の「ビジネスホテル崇徳館」がある場所にあった。耳取村から崇徳館までは直線距離で10㌔。五蔵は3里の道を通っていたことになる。父の跡を継ぎ、耳取村の庄屋役を務め、村の治水・新田開発に尽力した。晩年に父の私塾「青鬣館」を継ぎ、外山脩造(栃尾市小貫生まれ)や長谷川泰(長岡市福井生まれ)などの人物を輩出した。

 明治42年に建立された顕彰碑には2人の名前も刻まれている。碑文は八文字 「 井 上 五 蔵 光 座 上(または石) 塚 」と読むのだろうか。“青いタテガミ”と名付けた私塾を興した父・井上忠右衛門と五蔵は親子揃って顕彰されるべき。

 井上五蔵の碑  見附市耳取町(耳取集会所前)

2017年12月20日 (水)

棚織神社(見附市)

 少年の頃、近所にある神社の境内で遊んだ記憶はいくつもある。棚織神社(たなおりじんじゃ)は繊維産業が町の経済を支えていた見附ならではの神社で「機神様(はたがみさま)」と呼ばれている。「機(はた)」とは織物のこと。

201712051  201712052

 敷地は道路の拡幅や一部駐車場になって、当時の3分の2くらいになっただろうか。あんなに走り回っていた境内が狭かったことに驚いた。隣家との間に立つブロック塀が懐かしい(作り替えられたものだと思うが)。三角ベースをやって、ボールが塀と隣家の間に落ちると厄介だった。塀をよじ登るには腕力が必要で、塀の向こうに行くには勇気が必要だった。隣家が迫る塀との間は、子どもでも降り立つのが難しいくらい狭く、暗かったから。

 見附の繊維産業の歴史は1800年頃から始まって、幕末頃には「見附結城」が全国的にも知られるようになった。日本の中核産業1つであった繊維産業の一翼を担い、染色、織物、ニットなど繊維品の総合産地として発展した。

 繊維産業の町に棚織神社、機神様を建立した当時の市民や経済人の心意気に思いを馳せた。

 棚織神社(機神様) 見附市新町2丁目8 見附市中央公民館分室 見附市育児・子育て支援センター隣り

2017年10月31日 (火)

100分で名著 「歎異抄」

Img_20171004_135523 NHK、Eテレの「100分で名著」 10月は「歎異抄」(たんにしょう) ※2016年4月の再放送

 「歎異抄」は親鸞(しんらん)の書ではなく、門弟の唯円(ゆいえん)が、師である親鸞から直接聞いた言葉と、信徒たちによる異義への唯円自身の反論を記したもの(番組解説から)。タイトルのとおり4回・計100分の解説は要諦を丁寧に噛み砕いてくれたが、やはり回り回って意味不明。というか、積み上げては崩され、積み上げては崩される感覚。

 番組を見たのは2つの興味があったから。 

 親鸞は鎌倉時代前半から中期にかけての僧で浄土真宗の宗祖とされる。1207年、「承元の法難」で、師であった法然らが弾圧され、その門弟たちは死罪・流罪に処された。親鸞は1173年に生まれ、1263年に90歳で没したと伝わる。鎌倉時代、都から越後国国府に配流され、1211年まで30歳代後半のおよそ5年間を日本海に面した五智国分寺(上越市五智)竹之内草庵で過ごした。自分は30歳代後半に3年間、ここからわずか1㌔の場所に住んでいたのに、何の興味も持たず素通りしてしまっていた。

 親鸞の妻・恵信尼(えしんに)は越後国の豪族の娘だったとされる。真宗史学者である鷲尾教導(1875年 明治8年-1928年 昭和3年)は恵信尼が娘に送った書状と経文を発見し、「恵信尼文書の研究」を遺した。後に佛教大学(龍谷大学)で書記となった鷲尾教導は、浄土真宗本願寺派安城寺(新潟県見附市柳橋町)の住職だった。

 親鸞と同じ土地に住み、鷲尾教導と同じ土地で生まれたのだから、五智国分寺(上越市五智)、ゑしんの里記念館(上越市板倉区)など、彼らゆかりの地を訪ねてみたい。

 写真は見附市柳橋町の安城寺。仏堂は建て替え工事をしていた。小規模なお寺。

2017年9月 9日 (土)

みつけイングリッシュガーデン(見附市) 2

 「みつけイングリッシュガーデン」続き

Img_20170901_151516Img_20170901_151803

 写真1 ダリアかな?  2 イングリッシュボーダーガーデン ボーダーガーデンとは英国式花壇の1種類で帯状の細長い庭、境栽花壇のこと。手前から奥に向けて背の高い花を植えるのイングリッシュボーダー

Img_20170901_152902Img_20170901_152305

 写真3 ヤブラン? アメジトセージ?  4 パンフレットにはバンドハウスと案内されている ガゼボの形態の1つか

Img_20170901_152024Img_20170901_153050

 写真5 ボーダーガーデン  6 ガゼボ

 天気の良い週末は、それなりに混雑する。産業団地、幹線道路、新幹線と若干の騒音が気になるが、近隣にこのようなスポットはなく(越後丘陵公園は除く)、流行のインスタグラムやフェイスブックに載せる写真の撮影スポットとして十分使える。

 見附市の公共施設なので入場料・駐車料金もかからないが、園内には協力金を依頼する掲示がある。ぜひ、協力を。

 みつけイングリッシュガーデン 見附市新幸町6-35 開園期間・時間 4月~11月 8時40分~日没

2017年9月 8日 (金)

みつけイングリッシュガーデン(見附市) 1

 気軽に本格的なイングリッシュガーデンを楽しめる「みつけイングリッシュガーデン」。北陸自動車道 中之島見附ICから1㌔、国道8号線 上新田南交差点を見附市内方面に進むと、新潟県中部産業団地の入口に「みつけイングリッシュガーデン」がある。

 デザイン監修を日本のイングリッシュガーデンの第一人者であるケイ山田さんが務めた。山田氏がオープンさせた「蓼科高原バラクライングリッシュガーデン」(茅野市)を訪れたことがあるが、圧倒された記憶がある。

Img_20170901_151157Img_20170901_151330

 写真1 上新田南交差点から500㍍で見えてくる看板  2 エントランス(正面ゲート)

Img_20170901_151850Img_20170901_153317

 写真3 週末を中心にガーデンカフェが営業している  4 カフェエリア全景

Img_20170901_152120Img_20170901_152948

 写真5 池とガゼボ ガゼボとは庭園などにある西洋風の東屋のこと この意味を知るだけでも訪れる価値がある  6 芝生広場 奥に見えるのは隣接する「イングリッシュガーデンホテルレアント」

 見附市の公共施設なので入場料・駐車料金もかからないが、園内には協力金を依頼する掲示がある。ぜひ、協力を。

 みつけイングリッシュガーデン 見附市新幸町6-35 開園期間・時間 4月~11月 8時40分~日没

2017年9月 7日 (木)

新潟県の重心地

Img_20170901_163603 県内の市町村合併が進み、合併を選択しなかった見附市は面積が県内最小の市になった。新潟県の重心地が市内にあることがわかってから、見附市は“へそ”で推している(写真)。

 市民の交流施設として大きな役割を果たし、「まちの駅」としても機能している「ネーブルみつけ」。このネーブル(navel)もへその意味だ。町中の飲食店には「へそラーメン」というのぼりがたっている。7月には「へそまつり」が開催される。市内にはパン・ド・ネイブルという美味しいベーカリーもある。

 新潟県の重心地 見附市葛巻2-5-14 / パン・ド・ネイブル 見附市葛巻1-1679-1