言葉と刃物
人間の社会は、長い間、暴力に支配されていた。現在、そこから解き放たれたと仮定して、そこから解放後の時間は、あまりにも短い。
人間の歴史、人類のほとんどの時間は、暴力・武力によって支配されてきた。
暴力が支配していた時代が、ついこの前まであった。それは暴力が肯定されていた時代。
やがて、暴力が否定される時代になり、言葉が力を持つ時代へと変わった。その文明的な世界では、暴力は肯定されず、正当化もされない。暴力は何も解決しない。
しかし、世界はどうか。依然として、紛争地では暴力と武力が人々を支配し続けている。力を持たないはずの、何も解決しない、意味がないはずの暴力が、そこでは意味を持っている。
我々の国では「きれいごと」が通用しているに過ぎない。
言葉はどうか。ようやく社会では、パワハラ・セクハラ・モラハラと、多数のハラスメントが犯罪として認定されるようになった。力を持った言葉が、言葉の暴力という力を持った。言葉によって人は傷つき、死を選択する人もいる。
人は武器を言葉に替えたはずだが、人は言葉を武器に変えた。
さて、およそ民主的な方法で選出されたとは言い難い現在の首相に対し、国会で野党の女性議員が投げかけた言葉が「失礼だ」と批判・避難されている。首相自身も女性議員の言動に対し「失礼だ」と答弁した。
今国会は与党議員の無責任な行動を問いただす場だった。議論が白熱し、論調がヒートアップすることは当然ではないか。
なぜなら、その言葉は「異議申立ての言葉」だったからだ。
異議申立ての言葉が、刃物のような鋭さや重さ、そして強さを持たなければ、何も変わらないのではないか。
パワハラ・セクハラ・モラハラ等々、言葉は暴力だと認定されている。
言葉は暴力であり、刃物だということに疑いの余地はない。言葉は紛れもない武器なのだ。
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