本の帯
芸人には多才な才能に恵まれた人が多い。企画力、着想・発想力、構成力、演技力、体力、コミュニケーション能力…多くの才能を兼備していなければ、“売れっ子”になることは難しい。
あるバラエティ番組で見た彼は、活躍の場をテレビや演芸場から、芸術分野やインターネットを活用したビジネスの分野などに拡げている。そういった活躍を続ける中で、彼が記した本が異例の売り上げを記録したという。
彼の本の「帯」には、日本を代表する大物プロデューサー、IT企業の社長、有名な実業家や出版社社長等が推薦文を寄せている。彼には多少興味を持ったのだが、帯の面々を見聞きして、購入をとりやめた。
多読家でない自分は、本選びには慎重になる。可能な限り、(読後感の悪い)失敗の数を少なくしたい。自分が好きな作家やジャンルだけを読むことや嫌いな物は避ける傾向は、もしかすると読書の本質から逸脱し、醍醐味を味わえないでいるのかもしれない。気分や大げさなにいえば、自分が置かれている境遇で、これまで手に取らなかった作家や分野の本を購入することがある。自分にも何度かそのように高揚した気分の時があった。しかし、そんな時に“挑戦”した本では、失敗した経験しかない。
「帯の文などはオマケ。本や作者の本質は本の中にある」というのはその通りだろう。では、何故「帯」があり、その帯に超大物人物たちの名が並ぶのだろう。冒頭の帯に名のある人たちは、いずれも「壁を突破してきた人たち」という印象だ。既存の枠組みを乗り越え、新たな価値や新たな仕組みを創造した人たち。尊敬に値する。しかし、彼らは既に「権威的な領域に入ってきた人たち」でもある。
彼はその臭いを嗅ぎ分けられていない。芸人の彼が自身の領域を拡大していく過程で、権威的な人々にサポートを受けていることが、1冊の本の帯に明示されているように思う。
そのことは、残念ながら彼自身が突破者ではなく、彼らの「コンテンツ」であることの証だと思う。曲解だろうか。
「一流ミュージシャンが奏でる“ファンファーレ”では“革命”は起きないだろう」というのが、自分の考えだ。