輪島の時代
自分が幼い頃、娯楽といえばテレビ以外にはなかった。当時、民放のテレビ局は2局しかなく、「野球と大相撲」はスポーツの100%を占めていた。野球は「長嶋と王」だったが、相撲は「貴ノ花と輪島」だった。
貴ノ花、北の湖、千代の富士が去り、輪島が逝った。
希代の勝負師たちは、一般人の平均寿命まで生きない。力士の身体を造り、横綱・大関となることの鍛錬は、最盛期においては強靱な肉体と精神を誇るが、決して寿命を伸ばすことには繋がらない。
横綱・輪島の思い出は、いつも傍らで一緒にテレビ観戦していた祖母の記憶と表裏一体だ。判官贔屓(はんがんびいき)は日本人の特徴だが、祖母が貴ノ花と輪島を応援していたことは、自分の人格形成で影響を受けたと思う。
横綱・輪島は、その人柄の良さから、引退後は苦労した。プロレスラーに転じ、テレビのバラエティ番組に出演して食い扶持を稼いだ。それだから、彼の死を悼む声は、相撲界よりもプロレス界、芸能界の方が多いような気がする。このことひとつをとってみても、現在の相撲界・相撲協会が、冷たい日本型の閉鎖的な企業体質であることを物語っている。
ほんのいくつかしかない祖母の思い出が、遠くに霞んでいく。
刈り入れの終わった田んぼを眺めていて、輪島がつけていた「黄金のまわし」は「稲穂色のまわし」だったのかと気づいた。
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