重い死 1
暗いニュースばかり続く中、第23回冬季オリンピックが開幕。隣国、韓国平昌での開催。地の利を活かしてメダルラッシュになるか。
今週の日経平均株価の終値は21,382円62銭。1/23に記録したバブル後最高値24,124円15銭から▲2,741円53銭、前週末比▲1,891円91銭。暗雲がたちこめてきた。「皇族の婚姻延期」の報道も。世間様で起こることが皇族にも起こるということ。考え方によっては健全な証でもある。ショッキングではあったが感情が揺れたのは「元女性アナウンサー(52歳)の死」に関する報道だった。
彼女は「病であること闘病していることを隠し、15歳の子を残して」逝った。命の重さに軽重はないが、世の中では「子ども(特に幼子 おさなご)を持つ母の死」が最も重く受けとめられる。
子どもの範囲を18歳までと定義して、自分が18歳までに親から何を習っただろうと考えてみる。「人様に迷惑をかけてはいけない」ということを何度も教えられた。あとは、母が働く背中を見たし、父が生きる姿を見たが、それは自分で見た。自分の目、自分の意志、自分の心で見た。両親が俺の(私の)背中や姿を見ろとは言わなかった。
彼女の死を悼む声に接していると、多少の違和感を生じる。彼女と彼女の死に寄り添っているかのような人々は「死」というものが自身から遠い人たちのように思う。一見すると「重く」受けとめているように勘違いしてしまうが、自分にはそれが「軽く」扱われているように感じる。
世の中は悲しみで溢れている。ミャンマーのロヒンギャで行われた虐殺。無数の難民の中には幼い子どもたちが大勢含まれている。死者よりも生者を重んじるべきだと思う。死には2種類ある。「生命の死」と「生活の死」。生活の死について言えば、異国の難民を引き合いに出す必要はない。この国にも溢れている。
「人生の全ては運」だと言ったら、努力家に怒られるだろうか。運命には受け入れる以外の選択肢はない。誰かの人生、つまり俺の、つまりあなたの、人生の全ては記録も記憶もされない。一時的に記録され、記憶されることもあるが、それはほんの一時だ(一瞬と言っても良い)。
自分の人生は自分が彩る以外にない。それをまっとうしさえすれば、それで良い。彼女は生きた。フィナーレを自分で彩った。
死を涙で受けとめるほど、もう若くない。
「西向きの窓辺」カテゴリの記事
- 雪の重さを知る者は(2022.11.18)
- 彼は「戦後レジーム」を抜け出せなかった(2022.08.13)
- 内橋克人氏の訃報(2021.09.01)
- 良心の踏み絵(2021.07.03)