ワイドショーからナローショーへ
ヤフーニュースでこんな芸能記事を見た。出所は「女性セブン」。以下、抜粋して引用。
昨年12月、ある人の葬儀が行われた。故人は若い頃、バイクチームのメンバーだったことから、彼が生前愛用した「ハーレーダビッドソン」のエンジン音が響く中で出棺された。かつてそのバイクチームには有名俳優2人も所属していた。2人の間には40年以上の間、確執があった。この間、他のメンバーは2人を会わせる機会を作らなかった。2人の関係を知っていたからだ。昨秋、故人は危篤状態に陥った。亡くなる前にメンバーが見舞った際、目を見開き、両腕を上げてバイクに乗るような仕草をみせた。葬儀では40年以上確執があった2人も肩を抱き合い、涙を流して親友の死を悼んだ。故人が2人の確執を解いたのだ。メンバーは棺で眠る故人の髪をリーゼントにして彼を見送った。
いい記事だと思う。新聞には載っていない。
「有名ポップス音楽家が第一線を退く」という会見から1週間ほど経った。彼のプライベートな報道(スキャンダルではないと思うので)が引退の引き金になったとされ、それを報じた週刊文春に批判が殺到した。
“引き金”という言葉を使ったので銃に例えてみる。“文春砲”という銃からはスキャンダルという弾が発射される。しかし、銃において引き金を引くことは最後の手順だ。弾倉(マガジン)を挿入し、スライドを引くとバネによって弾が薬室(チャンバー)に送り込まれる。狙いを定め引き金(トリガー)を引くと弾が発射される。弾倉はスキャンダルの本人だろう。そう考えると疑念を持たれる行動をした音楽家に多くの責任がある。昨年、“文春砲”を受けた若者が「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間」とツイートしたのは笑った。
誰が悪か?何が悪か?という議論は、立場によって異なる。全ての意見に一理ある。自分は最も罪深いのは週刊誌の記事をネタに、これを後追い報道し、度々スキャンダルの増幅装置となるテレビワイドショーだと思う。事案ひとつひとつの中身も吟味する必要がある。巨悪、権力・権威による一方的な抑圧などは真っ先に、しかも時間を割いて報じられるべきだが、近年のメディアで調査報道を見ることはない。メディアは驚くほど多様化したが、なぜかテレビとワイドショーは横並びのままだ。
メディアに横並びの風習がはびこっている。しかし、それはメディアだけの責任ではない。メディアやマスコミはその国の文化、風習、国民性・民族性などに影響を受けるからだ。文春の記者、カメラマン、編集長、社長…。テレビの演者、記者、ディレクター、プロデューサー、報道部門の責任者、社長…。みんな「団体」だからやっている。決して「誰も一人では報じない」だろう。
マスコミとジャーナリズムは違う。今のテレビや週刊誌はジャーナリズムとマスコミとパパラッチが混在している。芸能人の不倫の話題に一定数、興味を持つ人がいて構わない。それを報道する場所があることは、我々の社会が健全である証でもある。しかし、そろそろ“ごちゃ混ぜ”の状況から卒業する時期に来ている。その名が示すとおりの「ワイド・ショー」ではなく、政治・経済とスポーツ・芸能を区分した「ナロー・ショー」として、これらを報じる岐路であるように思う。
マスコミは「大衆伝達」。一度に多数の人に伝えるが、伝える側は決して一人では伝えない。一方、ジャーナリズムは「事実伝達」(または真実伝達)。伝える相手は少数・多数を問わないが、伝える側は一人であっても報道しようとする、伝えようとする。
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