テレビの答え
30年近く続いたいくつかのテレビ番組が終了することがニュースになった。言われてみればそうだ。自分が20歳頃にもやっていた。ずいぶんと下品な番組だったが、30年続いたことは評価されていい。
最近の芸人は「(多くの自主規制があって)自由にやれない」とか、「(昔と比較して)予算がない」と発言している。スポンサーから金をもらって「自由にやれない」では商売の辻褄が合わない。世の中ではニーズのあるサービス(芸)を提供するのが当たり前のこと。
テレビの創成期や成長期は、現在ある自主規制や束縛はなかったという。「自由にやれた」、「新しいことにチャレンジできた」と。しかし、一方では編集や取材済VTR、効果音、テロップ等々、“笑いの増幅装置”の恩恵にあずかっている。「昔の人、昔の環境は良かった」という懐古主義は当てはまらない。昔の人は「今はいいな」と思っているはずだ。先行した者の利益があり、後継した者の利益がある。“おあいこ”だろう。
少しだけ彼らの肩を持つとすれば、テレビが娯楽の王道ではなくなったこと。この20年で個人の娯楽は急速に多様化し、多チャンネル化、多ジャンル化、専門化が進んだ。インターネットとSNSが爆発的な拡大・浸透し、庶民はテレビに依存しなくなった。それはテレビの力や価値の低下に直結したが、時代、環境が変わったのは彼らの責任ではない。
テレビの衰退要因と言えるかは別にして、テレビを大きく変えた法律がある。「個人情報保護法(2003年=平成15年成立)」だ。この辺りから、世相を映し出すテレビが“コンプライアンス偏重”に変貌した。そのことは、テレビの適度な下品さ(=殻を破ることへのチャレンジ)を失わせた。
街の賑わいを写した画像にモザイクがかかる。昔は顔にモザイク処理されるのは犯人だけだったが、今はすべてにモザイクがかかる。こんな世の中は正常なのだろうかと時々思う。
芸人を例えに出したが、テレビドラマの人たちは、もっと職場がなくなっている。ベテラン俳優・女優が慣れないバラエティ番組で編集効果に助けられている場面をよく見かける。また、ドラマの裏方さんたちは、仕事が激減しているはず。そういう話は表に出てこない。
今回、番組終了が発表された番組は、バブル前後の成熟期に生まれ、テレビ衰退期のあだ花として終わる。これまでのテレビ史に残る数々の番組同様に役割を終えたということ。過ぎ去っていく時間の中では、何者もが永遠ではない。
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