長岡聾学校文化祭
聾唖(ろうあ)という字は読めても書けない。聾とは高度の難聴のこと。唖とは聾からくる会話能力を喪失した状態のこと。
10月14日 何かの広報誌の片隅の記事に目をとめ、長岡聾学校文化祭に行って来た。興味本位には違いないが、以前から関心があった。
学校というのは教育の場所であり、人間形成の場所。社会生活を送るための知識や能力を習得する場所。社会と表裏一体というよりも、社会の一部であり、入口。社会と密接に関わっている。しかし、どんなに開かれていようと、校門の中は閉ざされた空間だ。ましてや聾学校となれば言わずもがな。そういった意味からも、一般開放される機会は貴重だ。
ホールの一角に長岡盲唖学校創立(1905年/明治38年)の経緯が掲示してあった。子息を入学させるため東京盲唖学校を訪れた金子徳十郎氏は「自分の子ども一人だけに教育を授けるよりも、大勢の不幸なる者に教育を授けるため盲唖学校を設立してはどうか」と校長に諭される。小西信八校長もまた、長岡出身だったという。偶然がつなぐ運命は、まるでそのことが約束されていた物語のように必然になる。
生徒達からハンディキャップの悲壮感を感じることはなかった。文化祭の作品も普通。こちら側の勝手な思い込みは払拭された。もちろん本人も含め苦労は多いだろうが、卒業生とおぼしき人々には笑顔が溢れていた。手話で意志疎通する姿は、外国語を話す姿よりもずっと日常的で、安心感のある情景だった。
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