慈眼寺(小千谷市)
船岡公園を市街地側に下りて来た所に慈眼寺がある。1868年5月2日(旧暦。新暦6月21日)に「小千谷談判」が行われた寺。
戊辰戦争の際、長岡藩は西軍(薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍)・東軍(薩摩と長州を中心とする新政府を認めない旧幕府軍)、いずれの勢力にも属さない(尊王でも佐幕でもない)中立派だったとされる。事実、長岡藩は奥羽列藩同盟への参加を断っている。長岡藩家老・河井継之助は新政府軍の岩村精一郎と慈眼寺で会談。中立の立場を守り、戦争を避けようと、西軍と東軍(中心であった会津藩)との調停の仲介を図ろうとした。しかし、岩村は河井の申し出を一蹴、嘆願書さえも受け取らず、会談は短時間で終了したといわれる。この後、長岡藩は奥羽越列藩同盟に参加し、越後諸藩もこれに続いて同盟に加わった。戊辰戦争における最大の激戦とされる北越戦争へと突入した。近代日本史の一幕。
船岡山慈眼寺 小千谷市平成2-3-35
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