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2017年5月14日 (日)

越後諸藩と桑名藩

 このひと月で、船岡公園の西軍墓地、伊東道右衛門の碑、小千谷の慈眼寺。そして、五稜郭。意識していなかったが、幕末の記事を記している。

 幕末、戊辰の越後には度々、「桑名藩」が登場する。越後諸藩と深い縁があることに気づく。桑名藩は江戸時代に伊勢国に存在した藩。現在の三重県桑名市の辺り。揖斐川、長良川、木曽川の“木曽三川”の河口に拡がる地域にあった。

 1601年 徳川家康譜代の重臣で“徳川四天王”の1人、本多忠勝が入り、桑名藩が立藩

 1617年 本多家に代わり、家康の異父弟である松平定勝が入る

 1710年 松平定重の時代に「野村騒動」が起き、責任を問われた定重は越後高田藩に移封を命じられる

 1802年 越後与板藩から婿養子として松平忠翼を迎える

 1823年 「三方領地替え」で陸奥白河藩から松平定永が白河藩の飛び地である越後国柏崎の所領と共に入る。久松松平家はかつての桑名藩主・松平定重の系譜。定永は「寛政の改革」を行った白河藩主で老中・松平定信の嫡男。

 1837年 大坂で発生した「大塩平八郎の乱」に触発された「生田万の乱」が、桑名藩領地・越後国柏崎で起こる。

 1868年 徳川慶喜が恭順派に回る。桑名藩主・松平定敬(会津藩主・松平容保の実弟)は、桑名藩領地である越後国柏崎に入り、西軍と抗戦する。越後長岡藩・河井継之助が戦死した後、兄の容保を頼って会津に落ち延びる。桑名軍は会津軍と共同して激戦を繰り広げたが、やがて降伏。元号が明治に改元。

 1823年の三方領地替え(三方領地替えは幾度となく行われた徳川幕府に使える大名の配置替え)で松平定永が白河藩の飛び地である越後国柏崎の所領と共に入ったことに端を発している。では、なぜ白河藩が越後国柏崎に所領を有していたのだろう。

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