令終の思想
悠久山通りを市街地から東に向かい、中央図書館を過ぎ、栖吉川を越える橋の名は「れいしゅうばし」。橋の東のたもとに石碑と銀色のプレートが設置してある。車ではわからないし、徒歩でも気がつかないかもしれない。石碑には「悠久山公園道路」と刻まれ、脇のプレートには3つのことが書かれている。
1.1916年(大正5年)当時、60歳を超えた財界人が「長岡には公園や公会堂などがない。長岡市と長岡市民の為になる事をしよう」と呼びかけ、これに賛同した者たちで会が設立されたこと。会の名前は「生きている内に善い事(令)をして、最期まで人生をまっとうしよう(終)」という願いを込め「令終会」と名付けられたこと。
2.悠久山を大公園に整備すること。公園に通ずる道路を拡幅整備すること。そのために会員自ら多額の寄付金を拠出したこと、また、募金活動によって10万円(現在の価値で数十億)の寄付金を集めたこと。寄付者の名簿には山本五十六の名前もあったこと。
3.工事は1917年(大正6年)に着工し、1919年(大正8年)に完成したこと。この石碑はその工事完成を記念して建てられたものであること。
令終とは「善死、美名を保って死ぬこと」を意味する。令終会が訴えた募金趣意書には「人生の終わりを全うせしむるに自己の私財を善用し、末を誤ることなかれ」と記されていたという。自分は長岡人ではないし、財界人でもないが、長岡に米百俵の精神など、「目先の利益よりも、後生・後世の利益を重んじる思想」があることに畏敬の念を持っている。
当時の寿命は男性で43歳、女性で44歳程度。寿命は男女ともに当時の倍近くまで延びた。「人生の終わりを全うせしむるに…」、その令終の思想は、今も尚、受け継がれているのだろうか。1917年(大正6年)5月24日、悠久山公園道路の竣工式が行われてから、今日2017年5月24日が100年目にあたる。
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