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2017年1月24日 (火)

3軒の駄菓子屋

 昨日の「バンカースとモノポリー」からのインスパイア。

 保育園で覚えているのはかくれんぼ。ピアノ(アップライト・ピアノ)の下がお得意の隠れ場所だった。あの頃、ピアノにはカバーがかけられていた。表が黒いサテン生地、裏が赤のフェルト生地のカバー。小学校低学年の頃は内気な子どもだった(今も内気だが)。小学校の中庭にあった遊具で遊んだりしていた。当時、誰と遊んでいたのかも思い出せない。断片的な記憶すらもない。母親は幼い弟に手がかかっていた。家は祖父と祖母の看病に追われていた。

 「子どもらしい子ども」としてデビューしたのは小学校3年生頃から。3年のクラス替えで、たくさんの陽気な友達が増えた。やはり友達の影響というのは大きい。放課後のドッヂボール、ビー玉、助け鬼、校庭で十字路という遊びもやった。町内全域を使った缶蹴りは3時間でも終わらなかった。冬の間はトランプの貧民(大富豪)。昨日、記したバンカースとモノポリー。そして…。

 1970年代、見附市内には3件の駄菓子屋があった。学校町1丁目の「正木屋」、新町1丁目の「おばちゃんち」、本町1丁目の「よろずや」(本町3丁目、南本町3丁目にも駄菓子屋があったように思うが、クジを引かせたり、玩具を売っていたのは3軒との認識)。

 家から歩いて100㍍、近所の正木屋によく通った。4畳半ほどの土間に所狭しと駄菓子や玩具、クジが並んでいた。仮面ライダーのカードや銀玉鉄砲が懐かしい。しかし、後ろめたくもあった。子ども心にも「駄菓子屋は浪費」と感じていたし、実際、親からも行かないように釘を刺されていた。近所であることも落ち着かない原因だった。その意味では新町1丁目の「おばちゃんち」は路地裏で車が通らない場所、絶好の立地にあった。横長で間口二間、奥行一間程度。子どもたちは道路上にいた。いつも白い割烹着を着た“おばちゃん”と呼ばれるおばあさんが店をやっていた。正式な店の名は何といったのだろう。放課後になるといつも10人くらいの子どもが店の前を囲んでいた。本町1丁目の「よろずや」。駄菓子屋というよりオモチャ屋に近かった。店舗は古い木造で、天井まで吹き抜けになっていた。他の店とは佇まいが違っていた。よろずやまで来ると、自分が「よそ者」であると実感した。店にいる子どもたちのメンツが違い、見たこともない子どもがいた。「よろずや」という店の名前から、得体の知れない、つかみ所のない、ミステリアスな印象を持っていた。

 やがて時間が経過し、成長とともに、駄菓子屋から離れていった。1980年頃になると、田舎町にもゲームセンターが出来た。5つ年下の弟が駄菓子屋通いしていた記憶はない。自分の次の世代である、団塊ジュニア世代はファミコンが家にあった。当時から子どもの数は3分の1に減り、子どもの遊び方は10倍になったとすれば、駄菓子屋の客は30分の1。駄菓子屋は成り立つ商売ではなくなった。駄菓子屋は、少ない小遣いを持ち、親の監視の目がない環境で、自分の意志で買い物をする。貴重な社会の入り口だったように思う。

【追記】昨年末、商店街の布団店と古くからあった薬局が店を閉めたと聞いた。当時、とても繁盛していた商店だった。高度成長期、バブル期、デフレ期…長い間、市民の生活を支えてきた役割を終えた。それは、役割を果たしたということ。

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