遺影の写真
昨日「昭和49年3月に祖父、昭和52年2月に祖母が亡くなった」と書いた。祖父は69歳、祖母は63歳だった。祖父の記憶は数えるくらいしかないが、祖父のことを記す。
祖父は「病弱な人だった」と聞かされた。「(兵隊として)戦争に取られたが、身体病弱のため帰された」とも聞いた。記憶に残る祖父は、病気に冒されていたこともあるが、体は細く、骨だけの体だった。火鉢の前に座り、キセルで煙草を吸う姿を覚えている。“明治の男”そのものだったと、今になっては思う。
昭和48年の秋。日曜日か祝日の朝、祖父と父が出掛けるという。祖父と父が出掛ける。それだけで、どこがドキドキと、どこかワクワクとしていた。組み合わせが違うから。いつもはそんなことがないからだ。
行き先は、何ということはなかった。小学校の前庭だった。家から小学校までは100㍍、前庭もその先100㍍だった。2人を追うように、あるいは、2人を追い越して前庭に着いたかもしれない。
前庭は半円状の白い柵に囲まれており、普段、生徒が立ち入ることはなかった。秋の芝は色が抜けて薄い山吹色になっていた。休日の小学校に人影はなかった。父は茶色のカーディガンを着て、手にはカメラを持っていた。
祖父は父の指示に従って、白い柵を跨ぎ、芝生にあぐらをかいて座った。眩しそうな表情をしていた。父が中腰になり、少し前に寄って、シャッターを切る。1枚、2枚、3枚。
「お前も撮ってやる」と言われ、1枚。その後、祖父に抱かれて撮影したのかもしれないが、記憶がない。
半年を経たずして、祖父は他界した。3月31日。春の訪れを待っていたかのように。
あの日、撮った写真は祖父の遺影の写真だった。
あの日、秋の晴天を待って、2人は写真を撮りに出掛けた。
あの日、父と、父の父との間にどんな会話があったのか。
あの日、祖父は父に受け渡したような気がする。リレーのバトンや駅伝の襷(たすき)のようなものを。
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