2つの保健室
献血に行った。成分献血が合わず、いつも400ml献血だ。平日の寒い日だったが、献血ルームには途切れることなく献血者がいた。採血用のベッドに座っていて思い出したことを書く。
学校には保健室や医務室がある。そこにいるのは養護教諭の先生。小学校の保健室にいたT先生はニックネームがついていた。愛知県の蒲郡出身の彼女が発する言葉の方言から取ったものらしかったが、実際にその方言を聞いたことはなかった。何がきっかけだったのか、先生とは気軽に話しができるようになった。昼休みや放課後、保健室によく通った。土曜日の午後、児童会の用事でガリ版を作る作業があった。土曜の午後は教室に誰もいないから、保健室でガリガリやっていた。そんな時も「何で教室でやらないの」とは言わなかった。担任の先生や児童会の先生への愚痴・文句・不満をよく聞いてもらった。
6年生の春に左足の第5中足骨を骨折して松葉杖をついていた。その年の冬休みには左すねに大ヤケドを負った。どちらもまあまあのケガだったが、その時は保健室に通わなかった。その理由は教室が校舎3階の東側、保健室は1階の西側にあり、距離があったこともあるが、自分にとっての保健室は、病気やケガの時に頼る場所ではなく、ココロの空気を入れ換える、そんな場所だったからだ。
中学校の保健室にいたのはT先生。風貌も性格もサッパリとした先生だった。具合も悪くないのに座っている俺を見て「また来たの?」と言われた。だが、「(教室に)帰りなさい」とか「(具合が悪くないなら)出て行きなさい」とは1度も言われた記憶がない。まるで「飲み屋のママ」だ。さすがに「また来てね」とは言わなかったが。
小学校でも中学校でも、カーテンで仕切られている休息用のベッドに横になったことはなかった。本当に頭痛がすることがあっても信じてもらえない。小学校では低学年の子ども、中学校では女子が寝ている時などは保健室を出て、それなりにマナーを守っていた。
記憶に残る先生は何人もいる。担任の先生、叱ってくれた先生、言葉をかけてくれた先生。部活や習い事でも先生はたくさんいた。中でも感謝したいのは、何を語るでもなく、時間と空間を与えてくれた2人の養護教諭の先生だと思っている。
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