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2016年11月22日 (火)

思い出の自転車 2

 便利な世の中になった。便利を2段、3段と飛び越えて、奇妙とさえ思う感覚がある。 

 書こうと思っていた自転車は、ドロップハンドルで12段変速の青い自転車なのだが、覚えていることはサドルに“DEKI”と刻印されていたことだけ。それだけを頼りにインターネットで検索すると…、一瞬で答えてくれた。

 出来鉄工所  高性能かつ高品質な実用自転車を安価で提供することで知られていた。部品メーカーの閑散期に部品を発注し調達単価を下げ、自社製フレームと組み合わせることで、高品質な自転車を低コストで生産していた。自転車生産の海外移転が進むと、この手法が裏目となった。部品メーカーとの取引を優先し、国産にこだわるあまり海外へ生産移転を進めることに遅れをとった。安価な輸入自転車との激しい価格競争に敗北してしまった。

 大人用でクリーム色の丸石自転車に何年か乗った後、母のママチャリ(ピンク)に乗ったりしていた。数年後に「ママチャリブーム」が起こったが、それよりも前の時代。自転車は相棒の域に達していたが、自分の自転車を買ってもらったことはなかった。

 中1の6月。13歳になった月に自転車を買ってもらえることになった。経緯は覚えていないが、「中学生になったら」とか「次の誕生日には」とか、淡い期待が先行していたのかもしれない。長岡駅前の長崎屋の折り込みチラシが入った。「変速機つき自転車」が4万円だったと思う。父と実物を見に行った。しかし、明らかに小さい。小学生低学年向けの自転車だった。落胆していると、すぐ隣に“ドロップハンドル”で“12段変速”の“青い自転車”があった。衝撃だった。「こんなの誰も乗っていない」。少年の心は自転車に撃ち抜かれていた。この時ばかりは「これが欲しい」と、明確に意思表示したと思う。価格は6万円だったと思う。予算の1.5倍だ。 

Deki_byc_2 その時の父の言葉は思い出せないが、要約すれば「話が違う。出直そう。買うのは中止。」ということだった。その後、なぜそんな行動に出たのか不思議だが、俺はすぐ脇にあった階段をかけ降りていた。感情を抑えられなかった。ダダをこねた記憶はないが、5つ下の弟はたくさんオモチャを持っていた(笑)「ガマンしてきた」という想いが爆発したのかもしれない。

 長崎屋の階段をかけ下りた後、見附まで15キロの道を歩いて帰った。道は祖父母の見舞いに何度となく通った中央病院に続く道を反対に遡れば良かった。道の心配はしなかった。いつもの道を歩いたら父に見つかる。通ったことがない農道を歩いた。方向だけ合っていれば帰れるという自信もあった。そして、その日なのか、翌日なのか、翌週なのか、父は自転車を買ってくれた。

 その自転車には22歳まで乗っていた。高校生になると長岡駅から長生橋を越えて4.5キロ、往復9キロをそれに乗って通った。大学入学後も関東まで持っていって通学に使っていた。パンクはしたが、故障したり部品が壊れたりすることはなかった。「高性能かつ高品質な実用自転車を安価で提供することで知られていた」という評価に偽りなかった。最高の相棒だった。

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