父の免許
父が自動車免許を取得したのは、38歳前後だと思う。昭和49年頃で俺が小学校2年生だった。小学校3年の時に亡くなった祖母の入院中、見舞いや付き添いのため、福住の中央病院まで車で通っていた。それ以前は、長岡へ買い物に出る時には電車で出掛けていたし、お盆の墓参りはバスで出掛けていた。夏休みの海水浴にタクシーで出掛けた記憶もある。そうやって記憶を辿っていくと、昭和49年頃に行き当たる。
免許を取って数日後の仕事帰り、父は友達に借りたのシビックかファミリアに乗ってきて近場をドライブした。あいにく大雨の日で、運転に慣れていない緊張感が子供にも伝わってきた。父はいろんな所へ連れて行ってくれた。ドライブやレジャー、旅行に限らず、仕事や用事で出掛ける時も、よく声をかけてくれた。俺は目的の場所だけでなく、町と町をつなぐ道と風景、見知らぬ町並みなどに興味があった。社会人になって「よく道を知ってるね」と言われるようになったのは、父の教育があったせいだ。
12歳の夏休みに佐渡旅行に行った。夏の大佐渡スカイラインで長く続く坂道で「ブレーキが効かなくなった」といって、サイドブレーキをギィギィと鳴らして坂道を下ったことがあった。スキーに行った帰り、雪の高速道路でスリップし、1回転したこともあった。父の仕事について行ったこともあった。
俺と弟を新潟の万代で降ろし、2時間後に会う約束をして別れた。携帯電話などない時代。なかなか約束の時間に父は現れず、人通りの多い万代の道端で弟は泣き出してしまった。30分ほど遅れて父は現れた。その日、新潟県には万代にしかなかったマクドナルドのハンバーガーを初めて食べた。「世の中にこんなに美味しいものがあるのか」という思いと、「何だこのしょっぱい“きゅうり”は?」という思いが入り交じった。そして、初めて飲んだシェイクの甘さに度肝を抜かれた。
父は日産のサニー(“三角窓”がついていたから2代目)、4代目サニーのバン、2代目のカローラⅡ、8代目サニー4WD、ティーダラティオ(サニーの後継車)などを乗り継いでいる。日産サニーは父の車と言っていい。よく父が車のボンネットを開けて、エンジンルームの手入れをしていた。青みがかった、緑がかったような色をした日産のA型キャブレターエンジンを思い出す。
話を振り出しに戻す。父が40歳手前で免許を取得したのはなぜだろう。自動車が1家に1台の時代になったこと。祖母(父にとっては母)の見舞い・付き添いのため。それだけだろうか。父は40歳から50歳の10年間、自分で商売をしていた。仕事上の転機、人生の転機を考えての行動だったと思う。ドライブ好きな父は、最近めっきり遠出しなくなった。つい去年、一昨年まで、仙台だ、飛騨高山だというのも困っていたが、そんな心配は不要になった。それはそれで寂しい気もする。
思い出話を書くと長くなる。
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