昨日はプロ野球ドラフト会議だった。明日からは日本シリーズが開幕する。DeNAベイスターズの三浦大輔投手の引退に続き、広島カープの黒田博樹投手も現役を退くことが発表された。2人はともに所属球団が低迷した時期のエースだった。技術もさることながら、気概を持った野球選手という点でも共通していた。以下は自分への備忘録として掲載。全文が日刊スポーツからの引用・抜粋。
小谷正勝(こたに・ただかつ)1945年(昭和20年)兵庫生まれ。67年ドラフト1位で大洋入団。通算10年で24勝27敗6セーブ。79年からコーチ業に専念し、11年まで在京セ・リーグ3球団で投手コーチを務め、13年からロッテ2軍投手コーチ。
2016.10.12 小谷2軍投手コーチ(71)が、今季限りでの退団を申し入れた。投手の育成、技術指導に定評のある同コーチはプロ意識が強く、1軍に送り込めなかった即戦力投手や、伸びしろのある好素材を育てられなかったことにけじめをつけたい気持ちが強いという。
2016.9.21 現役引退を表明したDeNA三浦大輔投手が手記を寄せた。横浜一筋25年。「ハマの番長」の哲学。
<手記> 愛称で呼ばれ、みんなに覚えてもらえる選手は少ない。大差で負けていても、ずっと応援してくれる方がいる。18番のユニホームを着ている方がいる。引退会見を終えてスタジアムに戻ると、土砂降りの中で待っていてくれる方がいる。どれだけ助けられたことか。いっぱい支えてもらった。(中略)どうしたら横浜が強くなるか。アマチュア選手が「横浜に行きたい」と思ってくれるか。08年、取得したFA権を行使した。金額は最初に話しただけ。半分は球団批判のような、疑問点を全部ぶつけた。「行使=出る」ではなかったが、残りたいと思える気持ちにならなかった。気持ちは50%ずつ。残るからにはいいチームにしようと誓った。横浜の25年間は人生に似ている。打たれたことの方が圧倒的に多い。本当にうれしいことって、何回かしかない。それ以外はしんどくて、悔しい。弱い自分を認めて、武器を増やそうと練習した。ファンはもがく姿も受け入れ、背中を押してくれた。たくさんの出会いと別れにも人生を感じ、その縁が自分を支えた。盛田幸妃さん(15年10月、転移性悪性腺腫のため死去。享年45)のシュートから強気を学んだ。肝機能障害に肘と肩の故障。横浜南共済病院の山田勝久院長に何度も助けてもらった。病を押して最後の最後までチームを支えてくれた浅利光博さん(チーム統括本部GM補佐を務めていた今年9月、胃がんのため死去。享年61)。いつも優しい笑顔だった小山昭晴さん(00年までコーチ。05年白血病で死去。享年45)。コントロールが抜群で、引退後も打撃投手として黙々と仕事をしてくれた石田文樹さん(08年直腸がんのため死去。享年41)。全員にお礼を言いたい。恩人とも出会った。プロ1年目に小谷正勝コーチと出会えたから、ここまでやってこられた。軸足にじっくり体重を乗せたい理由で、2段モーションのフォームをやってみたいと伝えた。コーチには、自分の意見に耳を傾け、一緒に技術を追求してくれる懐があった。ピンチの時、マウンド上で言われた。「己を知りなさい。自分はどういうピッチャーなんだ。力んでも150キロは出ないだろ」。己を知る。この言葉が自分の幹となり、いつも謙虚な気持ちにさせてくれた。(中略)裏を返せば「勝てなかったらやめなさい」と言っている。勝負の世界の引き際を、教えてくれたのだと受け止めた。「いい時期だな」と思えたのは、後輩たちのおかげでもあった。若い投手が出てきた。「いいチームになった」と感じた。野球教室で子どもに教える以上、うそはつけない。自分は弱い。だからこそ、決めたことを貫く。しんどくなってもやる。半端なことはしない。それが三浦大輔の筋だ。ファン。先輩、仲間。弱い自分を導いてくれた。スタジアムに来てくれた子どもたちにグラブをプレゼントしている。13年間で4,800個ほどになった。自分を応援し、プレーから何かを感じてくれた子がグラブをはめて練習し、プロ野球選手になり、横浜スタジアムで再会できたら、こんなにうれしいことはない。
以下の引用記事(2016.8)は宮下敬至記者の署名コラム。
2016.8.8 ロッテ2軍投手コーチを務める小谷正勝氏の自宅に通い、投球について学んだ。在京セ・リーグ3球団で、33年間も休まず投手コーチ一筋という職人。12年の1年だけが指導歴の空白で、月に1回、「投げる」という行為全般について座学を受けさせてもらうことになった。小谷氏の自宅は、投球について研究する工房さながらだった。授業は居間で行われた。奥には10畳ほどの部屋がある。中央の床がくぼんでいた。練習を終えた若い投手が訪れ、シャドーピッチングをしてできたくぼみだという。厳かな空間でペンを走らせた。原理原則を大事にし、妥協を許さない人である。一足跳びに事を運ばない姿勢は私に対しても同じ。丸1年かかるのも無理はなかった。知識の積み上げを怠らず、絶えず引き出しを蓄えているから指導者を続けられるのだと思った。知識が豊富なだけではプロの投手はついてこない。小谷コーチが名伯楽と呼ばれる理由は、もっと他にある。 →「投球フォームの10項目」は省略。
2016.8.15 小谷氏の自宅に1年間通い、投球について学んだ。指導を受けた投手が着実に伸びていくのには理由がある。コーチと出会ったのは巨人担当1年目。キャンプ中、2軍選手たちは予定より早い6時ごろからロビーに下りてくる。1番乗りはいつも小谷コーチ。10日ほどたって、何をしているのか分かった。1人1人、朝一番の表情を洞察していた。「新人の投手は、最低でも3カ月を観察期間とする。能力を持ってプロに入ってきた。性格を含め、個性を把握するのには時間がかかる。親御さんから預かった以上、責任がある」。(中略) 「昨日の日刊スポーツに『捕手を座らせて50球』という記述があったが、ピッチャーが『座らせて』と言ったのか」、「いいえ」、「あんちゃんが書いたのか。もしピッチャーが言ったのなら、注意しなくてはいけない。若い選手にとっては誰もが先輩。勘違いされたら困るからな」、「…」、世間の常識が正しいとは限らない。人の側に立って考え、自分の考えとの間を何回も往復させる習慣をつけることで、複眼の思考を持つことができる。濃厚な1年間は、最終的に「小谷の投球指導論」という書籍になる。あとがきを転載する。(中略)コーチを始めたのは昭和54年だった。頭ごなしに叱ったり、今思えば正しいのかも分からない考えを押し付けたり。激流の川の中におんぼろのボートを出し、いくらカイをこいでも進まないような日々だった。1軍の晴れ舞台に送り込めなかった投手たちから教えてもらった事は非常に多い。出会った縁にお礼を言いたい。「この子が世に出るためにどうすればいいかを、とことん考えること」と、コーチ業を定義している。選手がいるから指導者がいる。この順番を決して間違えてはいけない。動作の原理を理解して、正しい順番で投げる。原理から逸脱していなければ、短所には目をつむり、長所を最大限に伸ばす。訴えてきたこの2点を、指導の道しるべとしていただければ幸いである。小谷コーチの土台には、利己的の対極をいく人間観がある。響くから、選手は伸びていくのだと思う。縁を生かして羽ばたいた野球人は、いつまでも感謝の気持ちを忘れない。
2016.8.22 自宅を訪れ、盛田幸妃さんと同席した。鋭利なシュートで、当時の落合博満が苦手としていた盛田さん。「盛田は気が強い上に投手として頭が良くて、納得できないと人の言うことを聞かない節があった。『面倒くさいヤツ』と見られがちだった。私はそうは思わなかった。ピッチャーは、闘争心がなくてはいけない」と言った。盛田さんが続けて「このお父さんはね、人を色眼鏡で見ない。やんちゃだったオレをちゃんと見てくれた。見てくれているのが分かって、納得できたから、言われた通りにやった。そしたら、1軍でプレーできた。言うことは何でも聞くと決めた。迷ってる子は多いだろうね。自分は幸せだった」。「小谷の投球指導論」から盛田さんの項を抜粋する。(前略)横浜ベイスターズ元年、93年。盛田は右膝靱帯を断裂、人工靭帯で補う大手術をした。リハビリを克服して以後も、変わらぬスタイルでカムバックを果たしひと安心していた。バファローズに移籍した後、98年に「小谷さん、足首が思うように動かなくて、足の筋肉がけいれんする回数が増えてきたのです」と言う。私は痛めた靭帯の影響とばかりと思っていた。だが、検査の結果「脳に腫瘍があり、他の神経を圧迫して足のしびれの症状が起きる」というものだった。手術は成功し、盛田はカムバックを果たしてみせた。膝の手術といい、脳の手術といい、とてつもない大手術を行い、マウンドに戻ってきた。その精神力には敬意を表するしかない。2度も1軍の舞台に復帰した盛田に、もう1つだけ注文を出したい。もう1度ユニホームを着て、後輩の指導に当たってほしい。あのシュートを投げられる人材と出会うかどうかは分からないが、盛田2世の育成にトライしてほしい。技術はもちろん、諦めない強い気持ちを、野球界の後輩たちにも伝えてもらいたい。小谷氏は、この文章を12年の年初には書き終えていた。昨年10月16日、盛田さんは死去した。45歳だった。がんの転移が認められても屈せず、病気に立ち向かっていた。小谷氏は盛田さんの体調が楽観はできないと知り、心配していた。その上で最後まで普段と変わらずに接し、よき父のまま送り出した。
人を「育てる」とはこういうことなんだろう。育てられた人もまた、感謝する心を持ち、正しく・前向きな連鎖を繰り返す。