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2016年9月15日 (木)

本町の路地裏で

 先日、見附にオープンした日帰り入浴施設「ほっとぴあ」に行った。そこからの帰り道、夜風にあたって実家とは反対方向に歩き出した。本町通りの1本裏の路地を歩きながら、ある男の子のことを思い出していた。

 今から42年と半年前、1974年の春のこと。

 保育園の卒園式は、3月20日頃だったのだろう。記憶には残っていないが、「一年生になったら」を何度も歌ったことと服を着たり脱いだり、靴をはいたり脱いだり、そんな練習をしたかすかな記憶が残ってている。そして、3月31日から数日間の記憶は鮮明に残っている。3月31日に祖父が亡くなったからだ。

 あの頃、葬式は自宅でやるのが当たり前だった。数十人の大人が出入りし、家の中が賑わったことをよく覚えている。それから数日後。4月7日頃だろう。その日の朝、数日前に1度着て、すぐに脱がされた服を着る日なのだと知った。窮屈な服だった。母親からは樟脳の匂いがした。

 彼と初めて会ったのは小学校の入学式だった。初老で気が弱そうな、少し薄毛の男性が担任だった。「君はI君の後ろの席だから、I君の面倒を見てあげるんだよ」と言われた。「はい」と元気良く返事をするような子供ではなかったから、ただ小さくうなずき、かすれた声で「うん」と返事をしたはずだ。

 こうして彼が、小学校で一番最初の友達になった。彼はひとつ前の席に座っていた。正確には、座ってはいなかった。別の方向を向いたり、席を立ったり、奇声をあげることもあった。彼の意識は、全く別のモノに興味があり、その気持ちのまま、フワフワとしていた。「面倒を見てね」と言われていた自分は、彼を追いかけて「今井君、座ろうよ」なんて世話をすることはできなかった。「お願いだからジッとしていてくれよ」、そう心の中で念じていた。「こくご」の教科書よりも、彼が気になって仕方なかった。俺は彼を嫌いになった。

 母親と彼のお母さんが話をしていた。きれいなお母さんだった。「よろしくね。お願いね。」そんな言葉をかけられた。1日中、不安な気持ちで過ごした。数日間、不安なままで過ごした。「ねぇ、お母さん。ちょっと不安なんだけと」。そんなことが言える大人な子供ではなかった。ただただ、心配事を抱えたままだった。 

Dsc_0272 I君は給食の牛乳を飲むと、決まって口の周りが白くなった。彼は同級生に比べておしゃれなシャツを着ていたが、そのシャツはほとんどいつもズボンからはみ出ていた。俺は、白くなった彼の口を拭いてやることも、はみ出たシャツを入れてやることもできなかった。たまにI君の家に遊びに行った。彼のお母さんが誘ってくれたし、うちの母親も遊びに行くように勧めた。遊びに行くのは自分だけだった。そして、それを歓迎してくれるのはお母さんだけで、I君はひとりで遊んでいた。自分のこともおぼつかないままで、彼の面倒を見るなんてことは、何一つできなかった。しばらく経つと、I君は教室に現れなくなった。保健室の前にある別の教室に通っていることを知った。そのことは先生から発表されたのかもしれない。

 小学校を卒業する時までは彼を見かけた。中学校に入ってからも、町や何かの行事の時に見かけたことがある。彼を見かける度、自分は無口になった。昼休みや放課後にI君をからかう子どもたちに何回か遭遇したことがある。その時も自分は無口になった。

 自分は今も彼の名前を覚えているが、彼は俺の名を知らない。I君から、1度たりとも名前を呼ばれたことはなかった。しかし、彼からは何かを預けられたような気がする。それは「小さい玉」のようなものだ。

 初秋の夜風にあたりながら歩いたが、彼の家を特定することはできなかった。そこは所々が空き地になっていた。あの密集した町の風景はない。路地裏に響いていた機(はた)を織る音も聞こえない。町内の入り口にあったはずのWの家。Y、K、H、T、H…。次から次に頭に名前が浮かんだが、誰一人の家も特定できなかった。「みんな働き盛り。子育ても一番お金がかかる胸突き八丁だろうな」などと考えていた。

 “弱者のミカタでありたい”と考えるようになったのは、幼い頃のそんな経験もあるからなのかと、時々、思うことがある。胸の中にある「小さい玉」がそうさせる。

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