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2016年9月22日 (木)

青空とブルースカイ

Dsc_0424_2 1979年、見附小学校の野球部「青空」は市内大会、中越大会を勝ち上がり、県大会でも優勝した。そのチームは見附中学校に進み、県の中学校大会でも優勝した。更に、バッテリーは中越高校に進学し、3年生の夏、甲子園に出場した。

 ひとつ年上の彼らはいくつも年の離れたお兄さんに思えた。自分は5年生の野球部「ブルースカイ」にいた。ほぼ毎日の部活練習のほか、週に2回柔道を習い、週に2回塾に通っていた。更に、6年生になると児童会の役をやることになり、思い返せば人生で1番多忙な時期を過ごしていたのかもしれない。

 話は現在に戻る。夕方、18時過ぎ、薄暮の中。見附小学校のグラウンドで野球部と思われる少年達が練習していた。野球は9人いてチームが成立するが、少年の数を数えると8人だった。コーチと思われる男性が少年達と守備練習をしていた。少し驚いた。コーチはファースト付近から簡易的なバックネットの前にいる少年達に向かって、球をノックするのではなく、ゴロを投げていたからだ。考えてみれば合理的だ。ノックするには球を渡す助手がいる。投げるノックなら、一人あたりの練習量も増える。球のコントロールもしやすい。子供達が球を逸らした時、バックネット前ならば取りに行く時間も半減する。

 コーチには頭が下がる。おそらく自分自身の野球経験で、そんな練習をして来なかったはず。少子化などの社会的な問題、部活を取り巻く環境、平成10年代生まれの子どもたち。部活練習にも知恵を絞らなければならない。

 1980年当時、野球部には50人近い少年が在籍していた。「青空」は、Aチーム、Bチーム、Cチームが編成され、俺はCチームの「ライトで8番」だった。Cチームにも補欠がいたから、下手な方から数えて5番目以内。試合では球が飛んで来ないことを祈っていたし、飛んできたフライのほとんどを取り損ねた。不思議と外野にばかり球が飛んで来たが、考えてみればCチームのエースが投げていたわけだから。

 野球を見ることは好きだったが、野球少年としては落第生だった。部活は楽しい時間ではなく、苦しい毎日だった。ガマンすることを覚え、忍耐力がついた。幼年期・少年期の経験が人を作り、人格の基礎となるというのがわかる気がする。「三つ子の魂百まで」とは言わないが。

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