高校野球が嫌いな理由 2
高校野球の本質は「フェアプレイ」にあるのではないか?「そうではない。ただ単に、高校生を利用した産業だ」などと言う人は極少数だろう。完全に変わり者扱いだ。高校野球の本質は「フェアプレイ」にある。ではそのフェアプレイとは何だろう。
公益財団法人日本高等学校野球連盟の野球憲章に「学生野球は試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念」とある。また、公益財団法人日本体育協会は「フェアプレイとは」として、以下のように定義している。
1.行動としてのフェアプレイ ルールを守る。審判や対戦相手を尊重する。全力を尽くす。勝っても驕らず、負けてもふてくされたりしない。など行動に表れるフェアプレイのこと。
2.フェアプレイ精神 スポーツの場面に限らず日常生活の中でも、自分の考えや行動について善いことか悪いことかを自分の意志で決められること。 自分自身に問いかけた時に、恥ずかしくない判断ができる心(魂)のこと。
実体験、肌感覚として、1と2が重ならない。フェアプレイ行動とフェアプレイ精神が結びつかない。
いわゆる「体育会系の人」が就職に有利だと言われるのはどうしてだろう。彼らに期待されていることや、彼らが持ち合わせている能力とはなんだろう。
既存の枠組みを保持する役割を果たすからではないか?
進んで既成概念を補完する役割を果たすからではないか?
ルールを守る。審判や対戦相手を尊重する。全力を尽くす。勝っても驕らず、負けてもふてくされたりしないなど行動に表れるフェアプレイとは、つまり、「先輩、上司、会社の仕組みを保守し、序列と秩序を維持すること。」
体育会系の人ほど、「フェアプレイではないこと」に平気で目を背けるのはなぜだろう。自分が経験してきた身の回りの人物だけだろうか。会社が狂っていたからだろうか。それとも、自分が狂っているからだろうか。
ルールや審判が間違っていたり、時代が変化した時はどう行動するのがフェアプレイなんだろう。「モノ申すこと」がはばかれる世界に、フェアプレイなど存在するのだろうか。
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