サラリーマンの死/喪明け
生命ある者は、いつかは死ぬ。だけど人は、生きながらにして、死を経験することがある。体は死んでいないが、心が死を認識する時。だから、人は何度でも死ぬ。
サラリーマンにとって、生きながらにしての死とは、職を辞することだろう。そして、その死に方には2種類あり、自然死と自死がある。
尊敬する人は教えてくれた。「負け犬になるな」、「犬死にはするな」と。
世の中には下駄を履かせてくれる人がいる。厳密には、履かせようとしてくれる人がいる。たいていの場合、それは親だろう。俺は親ではないが、親の気持ちを想像することはできる。すべての人は「誰かの子供」であり、裏返せば、「すべての人には親がいる」のだ。
親は子に「この子がこれから、長い道を歩いていくのに、石もある、水たまりもあるだろう。裸足では痛むだろうから、下駄を履いていれば少しは楽だろう」と考えるのではないか。自分も親に下駄を履かせてもらった。
いくつの頃からか、俺は父親を「おとう」、母親を「おかあ」と呼ぶようになった。それは48歳になった今も変わらない。お父はいくつもの零細企業に勤めながら、50歳を過ぎても、新しい仕事に携わりながら、学費を捻出してくれた。お母はパートで稼いだ金のすべてを、生活費として送ってくれた。
大学では 外交史・国際関係史のゼミに入った。「統治システムとしての人種差別~アパルトヘイトの成立」が自分のテーマだった。
・為政者の統治システムとして人種差別が使われたこと(権力の欲求に際限がないこと)。
・力と力の衝突を回避する知恵を持つこと(武力衝突は互いが敗者であること)
・真実と事実を区別すること(ひとり一人の真実は異なるが、事実はひとつであること)。
すべての人は誰かの子であり、すべての人に親がいる。すべての人は、親がくれた下駄を履いている。
自分にとって8月1日は、夜明けであり、喪明けでもある。
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