バブル時代の末期、首都圏の端っこに引っかかるようにして学生時代を過ごしていた。
池袋を起点とする東武東上線沿線に住んでいた自分は、長い間、朝霞台にあるバイト先に通っていた。バイトは倉庫内で黙々と作業をこなす単純労働だったが、バブル期で時給が良かった。客や同僚と会話する必要がなく、軽作業だったから体力的なキツさもなかった。冬は倉庫内の寒さが堪えたが、雪国に育った身にしてみれば、屋外が晴天であるだけでも違った。
昼休みや休憩中、鉄組みの倉庫の階段に腰掛けて、「このままこの会社で仕事をしていれば、食うことには困らないな」などと呑気なことを考えていた。そう思わせるほど世の中は浮かれていたし、そう思わせるほど自分はまだ子供だった。
大学は冬休みに入っていたが、年末に帰省するまでバイトに励んだ。ある日、バイト先で話しかけてくる男の子がいた。見かけない顔だった。専門学校生の彼は3つ年下で川口市から来てた。JR武蔵野線は府中本町と南船橋(西船橋と記憶していたが延伸したようだ)を環状に結び、首都圏の外側を半円状に走っている。武蔵野線の北朝霞は朝霞台と隣接しており、彼は東川口からバイト通勤していた。
彼は冬休みのだけの短期バイトで、休憩時間に会話するようになった。ほどなく彼は、競馬の話をするようになった。競馬の話に興味は無かったが、「有馬記念」というレースだけは知っていた。出会ってから数日、彼が「有馬記念に一緒に行きませんか?」と誘ってきた。武蔵野線の府中本町駅は東京競馬場に、船橋法典駅は中山競馬場にほど近い。誘いに乗っても良かったが、その誘いに乗ることはなかった。俺は彼を“10代で競馬をやっている得体の知れないヤツ”と見ていたからだ。彼から「馬券を買って来ますよ。明日までに考えておいてください」と言われ、半ば強制的に馬券を買うはめになった。
スポーツ新聞を買い、暗号のような出馬表“馬柱”を眺めた。おおよその意味はわかってきた。バイト代金で買う馬券は負けられない思いが強く、予想家たちの予想欄を無視することはできなかった。今でも覚えている。1番人気のホワイトストーンから宝塚記念の勝馬オサイチジョージの馬連を千円、ホワイトストーンからメジロライアンの馬連を千円買った。
1990年の有馬記念はオグリキャップの引退レース。この競馬史に残るレースが、自分が初めて馬券を買ったレースだった。結果はオグリキャップの復活、そして引退。持っていた馬券は紙くずになった。
3年後、1993年の有馬記念でトウカイテイオーの「復活・引退」を的中できたのは、オグリキャップの教えがあったからだ。競馬歴は27年になった。何年かに1度は東京競馬場や中山競馬場に足を運ぶ。ディープインパクトのダービーも観た。
武蔵野線の高架がある風景は荒涼とした“武蔵野”を思わせる風景が残る。あの電車に乗る度に感傷的になるのは、なぜだろう。そして、競馬の世界へのきっかけを作ってくれた、“ただ人懐っこいだけ”の純粋な彼に感謝し、伝えたいことがある。「あれから、競馬とは長いつきあいになったよ」、「1990年の有馬記念を観に行かなかったことを後悔している」と。