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カテゴリー「1990年代」の8件の記事

2021年3月24日 (水)

平成の三四郎逝く

 衝撃的な訃報だった。1992年のバルセロナ五輪柔道で金メダルを獲得した古賀稔彦氏が亡くなった。53歳。

 少年の頃、柔道をやっていたせいもあって、柔道には思い入れが強い。そもそもの成り立ちから、柔道を「スポーツ」とは捉えられないし、柔道家を「アスリート」とは呼べない。「競技」でもない。

 「礼に始まり、礼に終わる」ことを徹底的に教示される柔道は、勝負同様か、それ以上に礼儀、相手に対する敬意の心が重要とされる。勝負に強い柔道家は枚挙に暇がない。しかし、本当に強い柔道家は少ないものだ。

 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」

 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説「プレイバック」の中で、主人公・フィリップ・マーロウが言うセリフ。

 真に強い柔道家とは、この言葉が相応しい者をいうのだと思う。

 心技体の強さと優しさを兼ね備えた平成の三四郎。

 自分にとって理想的な柔道家だった古賀氏を、心に残る3つのシーンを回想して送る。

 1990年  体重無差別で争われる全日本選手権で、軽量級の古賀氏が決勝まで勝ち進み、前年の世界選手権・無差別級の覇者である小川直也氏と対戦した姿。「柔よく剛を制す」お手本のような戦いだった。観客は、敗者・古賀に拍手した。

 1992年  左ひざのケガをおしてバルセロナ五輪決勝を戦い、勝利した姿。

 2004年  女子代表コーチとして、アテネ五輪で教え子の谷本歩実が金メダルを獲得し、ともに抱き合って喜んだ姿。

2018年8月 1日 (水)

就職戦線異状なし

 過酷な夏として記憶に残る夏がある。

 1991年。大学4年の夏は就職活動のためにアルバイトに区切りをつけていた。バブル経済は既に崩壊していたが、就職戦線はまだその余熱の中にあった。

 槇原敬之の「どんなときも。」は映画「就職戦線異状なし」(1991年6月公開。金子修介監督・織田裕二主演)の主題歌で、テレビの映画宣伝や音楽番組などで大量に流され、街で耳にすることも多かった。映画の公開時期と自らの就職活動が重なっていたため、映画そのものの評価はさておき、自分にとってはセンチメンタルな気分になる歌であり映画であることに間違いない。

 当時の就職解禁日が8月1日だった。今日から27年前。一流大学の学生や優秀な学生は内定先から拘束を受けていた。就職解禁日という仕組みは形骸化していた。「ニュースステーション」のキャスター・久米宏氏が、その就職戦線について冷めたコメントをしていた。普段、何も語らない父が珍しく「うちにも大学4年生がいるが、どうなっている」と言った。

 自分が夢を追った就職活動は失敗した。しかし、その活動が評価され、地元の優良企業に内定を得た。

 その夏はお盆を過ぎた頃に東京へ戻り、人生で最も怠惰な毎日を過ごした。たまに鳴る電話の大半はアルバイト先の係長からだった。就職戦線から帰還した自分は、何一つやる気を無くしていた。後期の授業が始まるまでのひと月近くをクーラーのない部屋で昼夜逆転の生活を送った。扇風機は熱風で役に立たず、小型冷蔵庫の扉を開けて涼み、一日に何回もシャワーを浴びて凌いだ。

 今年は間違いなく「最も暑い夏」なのだが、「最も過酷な夏」はあの夏だ。

 今年の就職戦線はどうなのか。しかしもう二度と「就職氷河期」はやってこないだろう。売り手市場が永遠に続くのではないか。そして、氷河期世代がバブル期世代を一方的に敵視する確執や誤解も、やがて解けるだろう。

2018年2月 4日 (日)

髪結いの亭主

Photo Yahoo!系列の動画サイト「GYAO!」は映画、テレビドラマ、音楽、スポーツなど多ジャンルの動画を無料で視聴できる。有料会員になれば視聴できる番組数は想像もつかないほど。しかし、そこまでは求めないし、その必要もない。

 1990年のフランス映画「髪結いの亭主」が配信中だった。あの頃はレンタルビデオが最盛期で、タイトルがキャッチーなこの映画はビデオ店の推奨作品だった。映画の原題「Le Mari de la coiffeuse」を直訳すれば「美容師の夫」だが、美容師を「髪結い」、夫を「亭主」と和訳したところが洒落ている。

 美しい髪結い「マチルド」役を演じたイタリアの女優アンナ・ガリエナは欧州の多くの国で活躍したようだが、この映画は彼女にとってone and only。まるで彼女のために作られたプロモーション映画のようだ。不思議な映画で、ハッピーエンドでもないのに、心が満たされる。

2018年1月23日 (火)

TV Bros.

 昨日からの寒波が関東で平成26年以来、4年ぶりの大雪を降らせた。今日からは北陸・東北の日本海側に大雪の予報が出ている。午前中は日が差していたが、徐々に荒れ始め、風を伴った雨は、雷が鳴って雪になった。週末まで続くこの寒波が降らす雪が、この冬の峠になる。

 年末に、20代の頃、「ダカーポ」という雑誌を読んでいたことを、正月に「ニューシネマパラダイス」という映画を見たことを記した。2つの記憶がまた次の記憶を呼び覚ました。それが「TV Bros.」(テレビブロス 東京ニュース通信社)。

 あの頃、2週間分のテレビ番組表と番組案内、芸能・エンタメ情報などを掲載した雑誌が隆盛だった。似たようなテレビ誌が10種類近くあった。「TV Bros.」を発行している東京ニュース通信社は「週刊TVガイド」というこの分野でメジャーなテレビ誌を発売していた。一方、「TV Bros.」は、当時180円という価格で「TVガイド」の廉価版としての位置づけだったが、その中身は独特で、個性的な雑誌だった。

 その独特さは数多くの連載コラムにあった。「このコラムは一体誰のために書いているんだろう」。よくそう思った。端からストライクゾーンに入れる気がなく、アウトコース低めの明らかなボールか、インコース高めの明らかなボール。そんなコラムばかりだった。普通に暮らし、テレビと新聞、一般的な娯楽雑誌からでしか情報がなかったら、到底知る由もないような事柄が、この雑誌には詰め込まれていた。マニアックな音楽、映画、見たことがない誌面レイアウト。有名か無名か、多数か少数かではなく、作品の優劣によって時には酷評を見ることもあった。健全な批評誌の側面を併せ持っていた。自由というより、好き放題に書いているライターの中からは多数の有名コラムニストが生まれた。昨年、「TV Bros.」は創刊30年を超えたという。健全であるからこそ、長生きするのだろう。

2017年12月31日 (日)

ダカーポ

Dacapo 20代の頃、「ダカーポ」(マガジンハウス)という雑誌を読んでいた。あの頃の自分にとって、週刊誌はずいぶん敷居が高い気がしていた。文春や新潮は読む記事がなく、論調にも違和感があった。朝日やサン毎は堅く、ポストや現代はオヤジくさい。写真週刊誌は下世話。「ダカーポ」には適度に硬派な記事があり、それでいて適度に軽く、切り口はやや斜め斬り。毎月2回の発売(第1・第3水曜)で隔週誌であることも自分にマッチしていた。

 その後の形跡を調べてみると「WEBマガジン」として継続していることがわかった。

 <WEBマガジン「dacapo」は1981年に創刊した“現代が3時間でわかる情報誌”「ダカーポ」が生まれ変わったクロスメディアマガジン。2008年にデジタルに移行し、ライフスタイルの最前線の動きを独自の取材でリポートしています>

 しかし、WEBサイトの更新は放置されており、雑誌時代のエッセンスも感じられない。50代が目前になった今は、文春や新潮、ポストや現代、朝日やサン毎の方が、かなり自分と至近距離にある。

 ダ・カーポ(da capo)はイタリア語で「先頭に戻って演奏」を指示する演奏記号。今日は大晦日。「da capo」に従って先頭に戻る時間。

     May the year of 2018 bring you a lot of happiness and smiles.

2017年12月23日 (土)

In This Country

20171223 昨日は冬至だった。夕方、小雨が降った空に虹がかかった。冬至の空に虹。

 今日は天皇誕生日。

 ロビン・ザンダー(Robin Zander)の「In This Country」は、アームレスリングとロードムービーの要素を仲介に“父と息子の絆を描いた物語”「オーバー・ザ・トップ」(1987年・主演シルべスター・スタローン)の挿入歌だった。日本では1990年代のF1ブーム時に「F1グランプリ中継」のエンディングテーマとして馴染みが深い。

 目の前の道は 俺たちが欲する場所に続いている 初めからあるがままの自分に従って 力の限りを尽くすんだ この国では俺たちの心は開かれている もう一度トライしてみるのも自由さ 未来が見えたら 俺たちはまた信じるようになる 今日俺は未来へと続く道を旅する とどまることのない心は旅立ちの時を知っている

 およそ200年ぶりに生前退位し、上皇となる天皇陛下の決断を“父と息子の絆の物語”と捉えた時、退位のご決断は自身が55歳で即位(1989年)したことと無関係ではないだろう。皇太子殿下は59歳で天皇に即位(2019年)することになる。「父が息子を思う心」。それこそが生前退位の最大かつ唯一の理由だと思う。

2017年2月12日 (日)

1998年ドラフト3位指名

 読売ジャイアンツで18年の現役生活を送った新潟出身の加藤健選手が、2016年シーズン限りで引退・退団した。彼は新発田農業で強打の捕手として活躍し、1998年のドラフトで巨人から3位指名を受け入団した。ドラフト1位が上原、2位が二岡。その年の目玉は松坂(西武1位指名)だった。巨人では、後々、名捕手として語り継がれるであろう阿部慎之介選手と同時代を過ごしたことも含め、現役時代に何十人もの捕手がジャイアンツに在籍したはずだ。2012年、日本ハムとの日本シリーズで起きた”死球騒動”が最もクローズアップされた出来事になってしまったが、激しい生存競争のチームで、控え捕手として18年の現役生活を送ったことは賞賛されていい。

 彼がプロ入りする際、縁あって何度か自宅を訪問したことがある。プロ入り後、彼のサイン入り野球カードを頂いた。“栄光の巨人軍”で、立派に仕事を勤め上げた彼を誇りに思う。今後の活躍を祈念しています。

2016年12月23日 (金)

1990年 有馬記念

 バブル時代の末期、首都圏の端っこに引っかかるようにして学生時代を過ごしていた。

 池袋を起点とする東武東上線沿線に住んでいた自分は、長い間、朝霞台にあるバイト先に通っていた。バイトは倉庫内で黙々と作業をこなす単純労働だったが、バブル期で時給が良かった。客や同僚と会話する必要がなく、軽作業だったから体力的なキツさもなかった。冬は倉庫内の寒さが堪えたが、雪国に育った身にしてみれば、屋外が晴天であるだけでも違った。

 昼休みや休憩中、鉄組みの倉庫の階段に腰掛けて、「このままこの会社で仕事をしていれば、食うことには困らないな」などと呑気なことを考えていた。そう思わせるほど世の中は浮かれていたし、そう思わせるほど自分はまだ子供だった。

 大学は冬休みに入っていたが、年末に帰省するまでバイトに励んだ。ある日、バイト先で話しかけてくる男の子がいた。見かけない顔だった。専門学校生の彼は3つ年下で川口市から来てた。JR武蔵野線は府中本町と南船橋(西船橋と記憶していたが延伸したようだ)を環状に結び、首都圏の外側を半円状に走っている。武蔵野線の北朝霞は朝霞台と隣接しており、彼は東川口からバイト通勤していた。

 彼は冬休みのだけの短期バイトで、休憩時間に会話するようになった。ほどなく彼は、競馬の話をするようになった。競馬の話に興味は無かったが、「有馬記念」というレースだけは知っていた。出会ってから数日、彼が「有馬記念に一緒に行きませんか?」と誘ってきた。武蔵野線の府中本町駅は東京競馬場に、船橋法典駅は中山競馬場にほど近い。誘いに乗っても良かったが、その誘いに乗ることはなかった。俺は彼を“10代で競馬をやっている得体の知れないヤツ”と見ていたからだ。彼から「馬券を買って来ますよ。明日までに考えておいてください」と言われ、半ば強制的に馬券を買うはめになった。

 スポーツ新聞を買い、暗号のような出馬表“馬柱”を眺めた。おおよその意味はわかってきた。バイト代金で買う馬券は負けられない思いが強く、予想家たちの予想欄を無視することはできなかった。今でも覚えている。1番人気のホワイトストーンから宝塚記念の勝馬オサイチジョージの馬連を千円、ホワイトストーンからメジロライアンの馬連を千円買った。

1990_arimaoguri 1990年の有馬記念はオグリキャップの引退レース。この競馬史に残るレースが、自分が初めて馬券を買ったレースだった。結果はオグリキャップの復活、そして引退。持っていた馬券は紙くずになった。

 3年後、1993年の有馬記念でトウカイテイオーの「復活・引退」を的中できたのは、オグリキャップの教えがあったからだ。競馬歴は27年になった。何年かに1度は東京競馬場や中山競馬場に足を運ぶ。ディープインパクトのダービーも観た。

 武蔵野線の高架がある風景は荒涼とした“武蔵野”を思わせる風景が残る。あの電車に乗る度に感傷的になるのは、なぜだろう。そして、競馬の世界へのきっかけを作ってくれた、“ただ人懐っこいだけ”の純粋な彼に感謝し、伝えたいことがある。「あれから、競馬とは長いつきあいになったよ」、「1990年の有馬記念を観に行かなかったことを後悔している」と。