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カテゴリー「1980年代」の15件の記事

2021年1月23日 (土)

僕が僕であるために

 最近、テレビコマーシャルで尾崎豊の「僕が僕であるために」が流れている。少し、複雑な気持ちになる。

 彼が、尾崎豊がもし生きていたら、彼は自分の歌がテレビコマーシャルで歌われることに同意しただろうか。同意しないとも言い切れないし、同意するとも言い切れない。

 彼の歌の版権は家族が持っているだろうから、家族がそう判断したということになる。きっと、彼の歌を歌い継いでいくために、という思いで判断したのだと推測する。

 尾崎豊は「僕が僕であるために」は「勝ち続けなきゃならない」と歌った。

 彼の死から30年近くが経過した現在でも、彼の歌がテレビコマーシャル(つまり、スポンサーや消費者に)のニーズがあるということは、彼の歌が勝ち続け、歌い継がれていることを示している。

 たった26歳で逝った彼は、彼は彼のまま、つまり、僕は僕のままで在(あ)り続けている。

2020年7月 6日 (月)

映画音楽の巨匠、逝く

 「自分の葬式はできる限りシンプルに」と考えている。しかし、もしいくつかのワガママが許されるなら、音楽を流したい。

 世界的な映画音楽の巨匠・エンニオ・モリコーニ氏が7月6日に亡くなった。こうなって初めて、彼のプロフィールに触れた。ローマの国立アカデミーで12歳から作曲を学んだ天才であること。演奏活動、作曲・編曲家を経て、「荒野の用心棒」(1964)や「アンタッチャブル」(1987)などの作曲を手掛けたこと。そして同じイタリア出身のジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988)を作曲した。「ニュー・シネマ・パラダイス」は彼の音楽なくしては成立しない。

 葬儀では自分の人生のバックグラウンド・ミュージックだった浜田省吾。そして、映画「追憶」のテーマ「The Way We Were」(バーブラ・ストライサンド)と、「ニュー・シネマ・パラダイス」のテーマを流したい。

 人生にはもう少し時間がありそうなので、選曲は変わるかもしれない。どうしても3曲と決めている訳ではないが、10曲も流すような葬儀は望まない。それではお経の時間と変わらない。

 もうひとつ。葬儀は参列者がいることを想定していない。音楽は「参列者に聞かせるため」に流すのではない。棺桶の中で「自分が聴くため」に。

 今夜は「ニュー・シネマ・パラダイス」のCDを聴いて、エンニオ・モリコーニ氏を追悼しよう。

 彼の音楽は、晴れの日にも雨の日にも、朝にも夜にも、夏でも冬でも、そして、若くても年老いていても、心に響く名曲だ。

2018年3月29日 (木)

世代

 1972年生まれのタレント2人が青春時代の若者(というよりも中学生、高校生)文化を振り返る番組が秀逸だった。

 当時の中高生男子の部屋を再現したコーナーでは「ケンウッドのコンポ」、「ラークのゴミ箱」、「コーナーラック」、「クリームソーダのステッカー」、「アクションカメラ」等々が紹介され、笑った。その部屋は自分の部屋と瓜二つだったからだ。彼らの時代を象徴するものとして「夕焼けニャンニャン」(フジテレビ1985年-1987年)と「ビーバップハイスクール」(映画は1985年)が取り上げられていた。1985年に自分は17歳だから同世代と言えないこともないのだが、「夕焼け」にも「ビーバップ」にも、全く思い出がない。

 世代の考え方は様々だ。3年とか5年、10年など年数で区切ったり、1980年代、90年代、あるいは昭和40年代、50年代と西暦や年代で区切られる。さらに出来事や世相で区切られたりもする。「新人類」や「バブル世代」などがそうだ。誰もがひとつの世代に限定されるわけではない。ある区分では世代の上の層になり、別の区分では世代の下の層になることもある。

 世代はともかく、自分自身にとっての象徴を考えてみると、世相を反映するテレビや映画にはそれほど影響を受けていない。感化されたのは2つ。浜田省吾と尾崎豊だ。

 意識的なパーソナリティーである“自我”は「愛の世代の前に」(1981年)で目覚め、「J.BOY」(1986年)で完結した。「PROMISED LAND」(1982年)、「Down by the Mainstreet」(1984年)を挟み、浜田省吾は年の離れた兄のような存在だった。もうひとつは「17歳の地図」(1983年)。尾崎豊は同じ学校にいる憧れの先輩のような存在だった。

 タレント2人が示したのは彼らが13歳から数年間のテレビ番組と映画だった。自分の脳裏に浮かんだのも13歳から16歳の音楽。人それぞれ影響を受けるモノは違う。同じモノに影響を受けたのも同世代。「大人でも子どもでもない時間」を共有した者たちも同世代。

2017年11月28日 (火)

夏に恋する女たち

 「夏に恋する女たち」というドラマがあった。1983年、15歳の夏。

 このドラマが放送されていた枠(金曜22時)の前シリーズが「ふぞろいの林檎たち」だった。一時代を作った名作ドラマだ。その後もシリーズ化された。このドラマに出演した俳優たちは、その後、多くが名優となった。原作・脚本の山田太一氏は指折りの名脚本家。主題歌「いとしのエリー」はサザンオールスターズの代表曲。

 人気ドラマの後継番組だったこと、放送時期(8月~9月)が夏休み時期と重なったことが「夏に恋する女たち」を視聴する背景にあった。

 TBSオンデマンドの番組紹介には「マンションの同じフロアに住む6人のシングル族が繰り広げる恋愛模様を描いたドラマ」とあり、別のサイトには「あるマンションに、訳ありの男女が揃った。バツイチのカメラマン、母親にトラウマを持つ中年ホスト、レイプ経験のある女イラストレーター、画廊商人、離婚直後の独身女、不良娘等々。反目しあい、理解しあった彼らは、最後にはそれぞれの道へと戻っていく…」とある。6人のシングルを演じたのは田村正和、名取裕子、梓みちよ、萬田久子、津川雅彦、原田芳雄。

 あまりにも都会的な職業設定や生活環境。個性的な大人たちの恋愛や苦悩。それらは、当時、少年だった自分の心には、ドラマというフィクションではなく、都会のある日常を切り取ったドキュメンタリーのように映っていた。

 このドラマの主題歌「夏に恋する女たち」(作詞・作曲 大貫妙子 編曲 坂本龍一)はおそらく作者の意図もあり、あまりメディアに登場しない。美しい旋律、透明感に溢れた歌声は、あの頃、憧れを抱いていた都会や大人、自立、苦悩といったイメージとして刻まれた心象風景を思い起こしてくれる。

 木枯らしの季節に「夏に恋する女たち」を記したのは、今日が大貫妙子氏の誕生日だから。

2017年10月11日 (水)

30年遅れのTHE BLUE HEARTS

The_blue_hearts 人の命や人生は道や川に例えられる。

 怠け者である自分は「人は人生において、常に全力疾走している訳ではない」と考えている。

 しかし、がむしゃらでない人生であっても、仕事を持ち、家庭を持ち、悩みを持ち、心か身体、あるいはその両方に傷みを持って生きる時間は、息苦しく、多忙で、ひと息つく間もない。

 誰もがうらやむようなエリートの人生も、名もなき日雇いの人生も、振り返れば1本の道でしかなく、その軌跡を2本、3本と描ける人はいない。

 その軌跡が人生のメインストリートだとすれば、誰にとってもバックストリートや見知らぬ道が同時並行で存在していたことに気づき、驚く。

 THE BLUE HEARTS を聴いている。彼らのメジャーデビューは今から30年前の1987年だ。

2017年7月30日 (日)

夏の本屋/本屋の罪

Img_20170717 休日の本屋には想像以上に客がいた。暑さの中、涼んでいる立ち読み客もいるだろうし、夏休み中ということもあるだろう。本や雑誌を10冊買うとしたら、インターネット経由で購入する割合が9冊か9.5冊。9割以上はネット経由だ。本屋で立ち読みして買うのが王道というか、本来の姿なのかもしれないが、最近のネットでは立ち読みに似た機能もついている。 

 10代、20代の頃、頻繁に本屋に出入りしていた。電車通学していたことも、頻繁に本屋に出入りした理由だった。1時間に1本しかない電車の待ち時間は駅や周辺の本屋で立ち読みするくらいしか時間潰しの方法がなかった。特に夏の本屋は、涼しくて快適な場所だった。 

 夏休みの宿題に読書感想文があった。課題の本は指定されていたのか各自の任意だったのか忘れてしまったが、自分が読んだものは覚えている。中学1年は太宰治の「人間失格」(新潮文庫)。中学2年は夏目漱石の「こころ」(新潮文庫)。中学3年は植村直己の「青春を山に賭けて」(文春文庫)。

 13歳で太宰治はどうなんだろう。少なくとも「人間失格」ではないと思う。14歳で「こころ」もどうか。15歳の植村直己は正解だと思う。これは父の本棚から拝借して読んだ。続けて、「北極圏1万2000キロ」や「極北に駆ける」も読んだ。太宰治や夏目漱石を感想文用の義務としては読んだ(読まされた)が、本を読む権利を行使したのは植村直己だった。植村直己は国民栄誉賞も受賞した登山家・冒険家。その後、自分はドキュメンタリーやルポを好んで読むようになった。その芽生えとなった最初の本になった。

 中1の文化祭で書道で書く文字は自分が決めて良いことになっていた。自分は「桜桃忌」と書いた。太宰治が入水自殺し、遺体が発見された忌日で、奇しくも彼の誕生日でもある6月19日のこと。「走れメロス」は教科書で習った。後年、「斜陽」にも挑んだが、しっくりこなかった。出版社や学校の推薦で提示される選択肢。そのお薦めカードを引いて、終いには桜桃忌などと書いてしまう少年だった。本屋の罪、出版社の罪があるように思う。

 店頭で「新潮文庫の100冊」というボードディスプレイを見かけ、写真に撮った。「新潮社が1976年から毎年夏に行っている文庫本のキャンペーン」ということも調べた。「100冊」に含まれるラインナップは毎年、見直されているという。今年のそれには「人間失格」と「こころ」が入っていた。それどころか、この2冊は日本の文庫本発行冊数の1位と2位を争っているという。それだけ日本人の多くがある程度の年齢で通り過ぎる本ということだろう。

 2017年の100冊を眺めていると、古典的名作は4分の1程度にとどまっている。読んでおくべき本から、読ませたい本(売りたい本・作家)が多数を占めているように感じる。

 人と本には偶然の出会いがあるものだ。最近の本屋は立ち読みもしやすくなった。本屋に出掛けよう。“偶然の出会い”と“涼”を求めて。

2017年7月23日 (日)

Stand by me 3

 若者は夏に成長する。経験が人を成長させる。経験は人を変える。この“日帰り旅”は、自我が目覚めていく過程で、曲がり角のひとつになった。

 あの頃、男子バスケットは、新発田の本丸中や新潟の東石山中などが強豪だった。本丸中などは名前だけでも強いイメージがある。東石山中は新設校と聞いていたが、アッという間に強豪になり、数年後には全国制覇を果たしてしまった。有力な指導者がいたのだろう。県内最高レベルのバスケを目の当たりにして、更にその先に北信越、全国のレベルがあると知った時、自分たちのバスケットは昼休みの遊びと変わりなかった。県大会を観戦したことが励みにはならなかった。

 バスケは1チーム5人が試合に出場する。激しいスポーツだから、交替するのが当たり前。それでもせいぜい5人+5人で10人出場できればマシな方だ。あの頃、部員は3学年で50人、同学年で20人はいたはずだった。ほとんどの部員が練習を休むことはなかった。大半の部員は、ただの1度も試合に出場することなく部活動を終えることになる。自分は次第に「バスケットボールというゲームを楽しむべきなんじゃないか」と考えるようになった。

 顧問の先生は熱心な方だった。しかし、14歳で自我が目覚めていく入口に立っていた自分は、次第に先生と考え方が異なることに気づき、距離を置くことになっていった。大人や社会の矛盾に対する抵抗だったように思う。

2017年7月22日 (土)

Stand by me 2

Img_20170713 県大会を観戦したことには大きな価値があった。同世代の、県内最高レベルのバスケを目の当たりにしたことは衝撃だった。この先、更に北信越、全国のレベルがあると知った時、自分たちのバスケットは昼休みの遊びと変わりなかった。それがわかったことは大きな経験だった。残念ながらその経験は、収穫や成功体験ではなかったが。

 何試合か観戦し、試合の合間に会場を抜け出した何人かで駅に戻り、暇を潰した。体育館の周囲には何もなかった。あの頃はコンビニもない。駅は無人駅だったように思う。1982年は国鉄が民営化される5年前。無人駅だったとしても辻褄は合う。駅には駅舎に面したホームと跨線橋を上って下りた先にもうひとつのホームがあった。時刻表は無人の改札に掲示してあるだけだった。1日に数本しか電車はなかった。線路には黄色い花が咲いていた。線路を横切るための3~4段の階段が設置してある。昔はいたであろう駅員が、その場所を使って反対側のホームで発着する電車、汽車を管理していたのだろう。注意する存在が誰1人いない時間、見知らぬ土地。ホームの跨線橋を使わず、線路を横断して渡ってみた。そして、戻ってみる。

 ここで思い出したことがあった。「線路に耳をつけると、遠くから来る電車の音が聞こえる。線路はつながっているから」ということだった。しゃがみ込み、土下座するように体勢を沈め、線路に耳を当ててみた。何も聞こえなかった。聞こえるのは、反対の耳から聞こえるセミの鳴き声だけだった。

 それからわずか1分後。まだ学生服のズボンについたホコリをはらっている時だった。耳を当てた線路の上を電車が通った。その駅を通過する特急だった(と思う)。電車は来ないと思っていた。しばらく電車が来ないことは時刻表で確認していた。しかし、電車が通過することは、頭の片隅にもなかった。

 特急が通過する駅。羽越本線の特急は京ヶ瀬駅、中浦駅を通らない。加治駅は通過する。加治川駅だったのだろうか。矛盾するところはまだある。7月の晴天時、夏の陽射しで焼けた鉄路に耳をつけることができただろうか。

 映画「スタンド・バイ・ミー」を観ると、この無人駅での出来事を思い出す。

2017年7月21日 (金)

Stand by me 1

Stand_by_me_2 映画「スタンド・バイ・ミー」(日本公開1987年)に4人の少年が鉄橋を渡るシーンがある。少年たちが歩いている向こう側から汽車が接近してくると、慌てて鉄橋を駆け戻る。このシーンを観たときに、同じような光景、似た経験をしたことがあった。「スタンド・バイ・ミー」が公開される5年前。1982年、14歳の夏のこと。

 35年前の断片的な記憶を少しずつ思い出してみる。記憶が断片的で、話の整合性がとれないが。中学2年生の夏、バスケ部にいた自分は、バスケ部員の希望者10人ほどで県大会を見学するため電車に乗った。顧問の先生が引率してくれた。当時は市内大会(6月中旬)→中越大会(7月初旬)→県大会(7月下旬)→北信越大会(8月初旬)→全国大会(8月下旬)という大会スケジュール。暑い夏の日の記憶と県大会の日程から推測すると7月24日頃の休日だったと思う。夏休みの初日だったかもしれない。

 中学生の服装は3パターンしかない。ひとつは学生服。ひとつはジャージ(体操着)、そしてもうひとつが私服。この日は、休日だから私服でもよかったし、大会見学だからジャージでも良かったが、全員が学生服だった。上は白い半袖の開襟シャツ、下は学生ズボン。

 肝心の行き先が思い出せない。駅に集合して下りの電車に乗った。新津駅で乗り換えたように思う。とすれば羽越本線だ。微かな記憶で「京ヶ瀬」もしくは「加治川」に行って来ると親に伝えて出掛けたように思う。その場所は、駅から徒歩数分のところに大会の会場になっていた中学校があった。羽越本線の京ヶ瀬駅は旧京ヶ瀬村の駅。しかし、京ヶ瀬駅周辺には中学校はない。中浦駅は旧豊浦町の駅。駅から数分の場所に豊浦中学校がある。加治駅は旧加治川村の駅。駅から10分の場所に加治川中学校がある。

2017年4月16日 (日)

見附市総合体育館

Dsc_0659 見附市月見台地区、刈谷田川に沿った地区に見附市の体育施設がある。見附市総合体育館は昭和46年6月に竣工。バスケットボールコート2面の体育館、2階には1周170mのランニングコース、卓球場、340席の観覧席を備えている。体育館と2階通路で結ばれた武道場、その隣には市民プール、道を挟んで相撲場と弓道場がある。ここから3キロほど北にある運動公園には、野球場、テニスコート、陸上競技場(多目的グラウンド)がある。2つの拠点が見附市の体育施設の中核になっている。保育園、小学校、中学校が建て替えられたり、移転した今となっては、総体周辺が少年時代の風景を残す、数少ない場所になった。

 総合体育館は市民から総体と呼ばれ親しまれている。35年前には中学校の部活で週に2~3回は通っていた。ここに足を踏み入れたのは成人式以来、28年ぶり。外壁に浮かぶ錆や内装のあちこちに老朽化の跡は隠せないが、写真のとおりガラスを多用したエントランスのデザインは建設後45年経った今も古さを感じない。

 いくつもの思い出が脳裏に浮かぶ。市民プールにもよく通った。親の付き添いなしで市民プールに入場するには学校の授業で行われる泳力検定に合格する必要があった。25メートル泳ぐと、生徒手帳に「泳力検定済」のハンコが押される。武道場、相撲場、卓球場にもそれぞれ思い出があるが、それはまた別の機会にしよう。

 体育館の観覧席がある2階へ上がると、第47代横綱 柏戸が昭和38年9月場所で優勝した時の優勝額が掲示されている。だいぶ色彩が色あせてしまった優勝額だが、40年前から掲示されていた。明日に続く。

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