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カテゴリー「1970年代」の33件の記事

2022年8月14日 (日)

三宅一生氏と父の縁

 2022年8月5日 ファッションブランド「Issey Miyake」を世界的なブランドに成長させた服飾デザイナーの三宅一生氏が亡くなった。84歳。

 三宅氏の生涯、輝かしい功績についてはここに記す必要もない。ただ、三宅氏とわずかな縁を持っていた父とのエピソードを記して追悼したい。

 父は職業人としてのほとんどを繊維産業に携わった。1970年代。まだ繊維産業が隆盛だった頃。父は会社から命令を受ける。「(取引先の)住友商事の営業と一緒に三宅というデザイナーを案内してやってくれ」と。夏の暑い日だったと聞いた。

 父は三宅という人がデザイナーとしてどんな人物なのか、全く知らなかった。父は当時のマイカー「日産サニー・バン」に二人を乗せて、市内・県内の繊維会社と産地を案内した。この1泊2日の視察旅行の顛末を聞き、デザインの本質に関するエピソードではないが、デザイナーの本質を示すエピソードとしては十分だと思った。

1.当時の車にはクーラーがなかった(だから自分は夏に車に乗るのが嫌だった)が、新進気鋭のデザイナーである彼、三宅氏は文句ひとつ言わず、その車で父の案内を受けた。

2.宿泊先はイタリア軒(今も新潟市で営業する老舗ホテル)。古町で食事をとっていた際、ファッションに詳しい女性2人から声をかけられた。「すみません。三宅一生さんですか?」と。父は彼女たちが三宅氏を知っていた(新進気鋭のデザイナーと認識されていた)ことに驚いたという。

3.父は二次会の場所として、横に女性が付くような店を打診したところ、彼は「いえ。私はそういう店は結構です」とし、落ち着いたバーやラウンジのような店を希望した。

4.三宅氏は父に「次は新潟県の北部・村上市の山辺里織(さべりおり)を見学したい」と告げて、視察は終了した。

【山辺里織は新潟県村上市山辺里で織られる絹織物で、寛政(1789~1800)の末、越後藩主内藤候は、家臣の婦女子の内職として、手織機を貸し与え、機織りに詳しい小田伝右衛門光貞に織り方伝授係を命じた。これにより、紬(つむぎ)織り、竜紋、斜子(ななこ)白生地を織ったのが始まり。1816年(文化13年)には、京都から織り師を招いて袴(はかま)地を織り出したのが「山辺里平(さべりひら)」。明治時代末から方向転換し、紳士服の袖裏地も織り出して人気となった。この地を流れる門前川の水質が、精練、染色に適していた。現在も裏地、袴地と織られている】

 これは蛇足だが、父の立場からすれば、父の顧客は住友商事であり、三宅氏ではない。三宅氏は商社と取引関係にあるが、商社の担当者はこの視察に関する費用のほとんどを父の会社負担としたことが強く印象に残っていると言っていた。

 三宅氏を追悼する記事で「和紙や籐など、さまざまな種類の生地や素材を服に使うことにこだわっていた。三宅氏は母国(日本)からインスピレーションを得て、伝統的な日本の生地とデザインを多用し、折り紙など、日本の工芸品や図案にオマージュを捧げたデザインも多い 」とある。これらの評価は父が語ったエピソードから偽りない事実だろう。

 父と三宅氏が並んで撮った記念写真がある。三宅氏よりも1つ年上の父は、まだまだ存命だ。

2022年1月17日 (月)

パ・リーグと裏日本 ~水島新司氏の訃報に~

 今月10日に漫画家の水島新司氏が亡くなっていたことが公表された。

 少年時代に読んだ漫画は、ほぼ水島氏のものだった。漫画雑誌を買う余裕はなかったから、何か月かに1度、新刊が出ると自転車で買いに行っていた。あの頃が懐かしい。「ドカベン」、「あぶさん」、そして「野球狂の詩」。

 代表作「ドカベン」は野球漫画の金字塔と称される。そのことに何の異論もないが、「ドカベン」の1巻で主人公の山田太郎は柔道着を着ている。山田太郎は両親を失くし、畳職人の祖父とサチ子という名の妹と長屋で暮らす、ずんぐりむっくりの少年だ。

 「あぶさん」の主人公は酒好きな代打屋・景浦安武。所属は南海ホークス。エースでも4番バッターでもない、代打屋が主人公だった。

 「野球狂の詩」は女性プロ野球選手の物語が有名だが、10巻までの読み切りストーリーに味わいがある。架空の弱小球団・東京メッツを舞台として、野球選手だけでなく、野球を取り巻く、どちらかといえば不器用な人々の人間ドラマを見事に創作し、描写してみせた。

 水島氏はプロ野球では一貫してパ・リーグにスポットライトを当てた。個々の選手や球団の実力がありながら、人気・集客ではセ・リーグに劣ったパ・リーグの応援団だった。

 昭和の時代、日本海側は“裏日本”と呼ばれていた。高度成長で目覚ましい発展を遂げ、冬は降雪が少ない太平洋側が“表日本”で、経済成長や国土の近代化に劣後し、寒冷地でもある日本海側を“裏日本”とする区分があった。水島氏は裏日本・新潟の魚屋に生まれ、憧れの新潟明訓高校の校名を作品中の学校名として引用した。自身が卒業した白新中学の名をドカベンのライバル校・白新高校として登場させた。

 これらの事柄に共通するのは「日陰に咲く花を照射する姿勢」だろう。

 水島氏から習ったことは数え切れない。

2018年8月15日 (水)

トラック野郎と沖縄

2018_bsugawara 終戦記念日

 先週8月8日、翁長(おなが)沖縄県知事が死去したニュースは「ニュース速報」として流された。これは推測だが、他県の知事が亡くなったとしても「速報」されないだろう。

 県民生活に寄り添い、保守政治家でありながら中央政府に敢然と立ち向かう姿が、度々、ニュースで伝えられていた。自らの死を伝える報道が、「未だ終戦を迎えていない沖縄」を照射した。

 知事死去の速報が流された夜、録画していた「トラック野郎 御意見無用」(1975年)を鑑賞し、本棚から雑誌「現代思想」2015年4月臨時増刊号を抜き出した。「トラック野郎」の主演は菅原文太、「現代思想」の特集は「菅原文太 反骨の肖像」。

 菅原文太(1933年・昭和8年8月16日-2014年・平成26年11月28日)という俳優がいた。芸名のような名前は本名で、「仁義なき戦い」や「トラック野郎」という大ヒットシリーズの主役を張った。

 彼が亡くなる数ヶ月前に沖縄知事選(2014年)で翁長氏の応援演説をする姿を思い出した。

 「沖縄の風土も本土の風土も、海も山も空気も風も、すべて国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです」。“「トラック野郎と沖縄”は決して無関係ではなかった。

 彼の映画の数々が優れた娯楽作品だったことは言うまでもない。しかし、映画の中の彼がアウトローやアナーキーなヒーローを“完全に演じていただけ”だと知ったのは彼が俳優をセミリタイアした頃だった。自分は“演じていない彼”に興味を持った。

 名優は数多くいる。政治的、主義主張を発言する俳優も少なからずいる。しかし、たいていの場合、彼らは、自分は安全な場所にいることが多い。彼らの言葉が刺さらないのに比べて、菅原文太氏の言葉は腑に落ちた。

 「本来、人の命を養うための営みが、利益や効率を追い求めて、いつの間にか商業や工業のようになってしまった」 

 「暴力映画に出てきた私が言うのもなんですが、命を賭けて戦争に反対しましょう」

 「土そのものが、土を育てる。土に何を与えるかが重要だ」

 そして、この言葉が一番有名だ。

 「政治の役割は二つある。一つは国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。“絶対に戦争をしないこと”」

 明日16日は菅原文太氏が生きていれば、85歳の誕生日になる。

2018年2月24日 (土)

Late for the Sky

20180220 映画「タクシードライバー(Taxi Driver 1976年アメリカ)」を観ていると、ジャクソン・ブラウンの「Late for the Sky」が流れて来た。

 「タクシードライバー」は監督マーティン・スコセッシ、主演ロバート・デ・ニーロのゴールデンコンビによる「アメリカン・ニューシネマ」の名作。

 主人公トラビスが強盗犯を殺した後、部屋でテレビを観るシーンで「Late for the Sky」がおよそ100秒間流れる。

 Awake again, I can't pretend, and I know I'm alone  And close to the end of the feeling we've known  How long have I been sleeping  How long have I been driftin alone through the night  How long have I been running for that morning flight  Through the whispered promises and the changing light  Of the bed where we both lie  Late for the sky 

 また目が冴えてきた もう偽ることはできない 自分の孤独を思い知る  僕らがわかりあえていた想いも終わろうとしている  どれくらい眠っていたのだろう  どれくらい独りで夜を彷徨ったのだろう  どれくらい別れの朝を決意しようとしただろう  夜通し話し合った約束で変わったのは外の明かりだけ  僕らが横たわる偽りのベッドで  明け方の空に間に合わないままに 

 映画の外観は、どこか退廃的で倦怠感のあるサクソフォンの音が全編に渡って流れ、全てのシーンの1カット1カットは1970年代のアメリカ社会を撮したポスターのような映画。その内観は当時のアメリカ社会の陰を色濃く反映し、ベトナム戦争、元軍人、不眠症、薬、銃、暗殺未遂、ポルノ、少女売春などがマーティン・スコセッシ流のリアルな暴力描写とともに描かれる。

 現代は息苦しく、息詰まるような利益至上主義。その裏で支配層は着々と、既得権益を積み上げている。貧富の差の拡大。利己主義の蔓延。矛盾だらけの現実を前に、善良な倫理観を保ち続けるのは困難に近い。理解されない「こころ」、寛容されない「気持ち」は、自分を責め、苦悩することで何度も収縮を繰り返す。しかし、それには限界がある。

 映画「タクシードライバー」の時代と現代にはとても共通点が多いように思う。

2018年2月20日 (火)

綾通し(あやどおし)

20180201 先月、母親を助手席に乗せて隣町まで運転した。母は座席に座るとダッシュボードが障害になってボンネットの先が見えない。バックモニターがついていることも知らないので、前進、後退、右折、左折、それぞれの場面で口うるさいほど注意する。母の身長は150㎝のはずだが、年をとって縮んだのかもしれない。大きな猫のように背中を丸めた姿は、ずっと以前にどこかで見たような気持ちでいた。

 タイミング良く、戦後途絶えていた「亀田縞(かめだじま)織物が復活」というニュースを見て、母親が背中を丸めて「綾通し」(あやどおし)をしていた姿を思い出した。

 見附は繊維産業の町。十日町、五泉、亀田、栃尾などと並んで織物の産地だった。1970年代、既に繊維産業は衰退・縮小傾向にあったが、それでも町中を走るたいていの車は「いとへん」(繊維産業のこと)に関わるものだった。就労者の7~8割はその業界に従事していたのではないか。

 自分の家もそうだった。父は織物商社、母親は家で綾通しの内職をすることが多かった。綾通しは糸を綜絖(そうこう)という針金のようなものの真ん中にある小さな穴(ヘルド)にタテ糸を通す作業のこと。平織りの場合は綜絖が2枚以上、綾織りの場合は3枚以上要する。綾通しの作業は細かく、熟練の技が必要だ。母は1日の大半を茶の間の入り口に設けた作業スペースで過ごしていた。出来高制だから母は懸命に糸を通したが、それでも1日に2千円稼げたかどうか。後ろに石油ストーブを置き、座布団に座り、膝掛けをかけ、何時間も「カチャ、カチャ」と糸を通す作業を続けていた。綾通しをする母の背中はいつも丸まっていた。

    http://kamedajima.com/    亀田縞を復活させた中営機業のHP

    http://takumidream.com/    経糸を綜絖に通す「綾通し」 ㈱匠の夢のHP(写真は同社HPから)

2018年2月14日 (水)

石油ストーブと掘りごたつ 2

 幼い頃、家の暖房は石油ストーブと掘りごたつだった。昭和30年代までは土間だったという玄関は後になって車庫に使うほど広かった。その玄関先の左右に明かり取りの窓があった。左右にある窓の間が玄関の入口で、4枚の引き違い戸は2間あっただろうか。左側は開閉できる腰高窓だった。子供の背では届かない高さだった。

 腰高窓の周辺は入口から茶の間の脇にある玄関までの動線から外れていて、物置のように使われていた。夏の水撒き用のホース、冬の雪かき用のスコップ。その雑多な茂みの中に掘りごたつ用の「練炭」が置かれていた。

 厚手で丈夫なクラフト紙に包まれた練炭の上には、ハガネの火バサミが横たわっていた。七厘に練炭を入れ、火をつける。それを掘りごたつの中心の底に置くと、徐々にこたつの中が暖かくなった。

 掘りごたつの中は暖かく、子どもはつい潜ってしまう。そうすると決まって祖母に叱られた。眠ってしまうことはなかったが、一酸化炭素中毒の危険性があった。いつも叱られるばかりで、「危ないことなんだよ」と説教された記憶はない。

 玄関先にしばらくあった練炭は、いつの間にか無くなっていた。掘りごたつを使わなくなったのは、1978年2月14日に祖母が亡くなってから。あれから今日でちょうど40年経った。祖母の名は千代美といった。カタカナ2文字の名ではない。大正時代に農村部で生まれたにしては随分とハイカラな名前だ。

2018年2月13日 (火)

石油ストーブと掘りごたつ 1

 幼い頃、家の暖房は石油ストーブと掘りごたつだった。昭和30年代までは土間だったという玄関は後になって車庫に使うほど広かった。その玄関先の左右に明かり取りの窓があった。左右にある窓の間が玄関の入口で、4枚の引き違い戸は2間あっただろうか。右側は半間のはめ殺しの窓だった。カーテン代わりに黒い布が吊り下げられていた。

 その窓の前には200㍑サイズのドラム缶が置いてあった。石油ストーブに使う灯油が入っていた。現在では燃料タンクは屋外に据え置くが、昔は普通にある風景だった。ドラム缶は全体が濃い青で、所々が錆びていた。缶の上部は汚れたピンク色で、そこには特殊な書体の文字で「大協石油」と書かれていた。大協石油(現在のコスモ石油の前身)のガソリンスタンドが近所にあった。冬が近くなるとそこの小型給油車が玄関に横付けされる。冬を越す分の灯油が給油され、その作業をジッと見ていた。

 石油ストーブへの給油は2段階の作業が必要だった。まず、ドラム缶から18㍑のポリタンクに石油を移す作業。そのポリタンクからストーブのタンクに給油する作業。ドラム缶についているポンプはかなり大型で、ポリタンクに移す際は15㍑あたりで栓を弛めないと、アッという間に灯油が溢れた。この作業を失敗して、玄関先に灯油の海を作ったことが何度もあった。こぼれた灯油は新聞紙を何枚も重ねて吸い取った。それをゴミ袋に詰める。それでも灯油の臭いを除き切れず、数日間はその臭いの中で、家族全員が靴を脱ぎ履きする羽目になった。

 灯油入れ替えの失敗は4~5回やった。後半は灯油始末の腕も上がって、騒がず、悠然と片づけていた。不思議と親から叱られた記憶はない。ポリタンクから石油ストーブへの給油は進んでやった。ストーブは特注の金網で覆われていて、その金網は洗濯の物干しを兼ねていた。だからだろう。幼い頃、冬の衣類にはストーブの匂いが染みついていた。

2018年2月 5日 (月)

雪の夜

201801263 前回の寒波から晴れの日が4日続いた。この間、雪は半減して圧雪が凍結していた道路もアスファルトが姿を現した。今朝からの寒波は木曜まで居座る予報が出ている。ちょうど1年前にも記したが、雪国の立春は冬の折り返し地点。節分や立春の頃が、寒さも雪も最も厳しい時期。こんな雪の夜になると思い出す歌がある。

 大阪毎日放送(MBS)のラジオ、「MBSヤングタウン」は新潟でも聞くことができた。昼は電波が入らないのに、夜になると遠いラジオ局の電波が届くようになった。大阪のラジオ局が新潟まで届くような電波を発信していたとは考えずらい。電波が届いた理由は謎だ。今になって振り返って思えば、それは神様からの贈り物のように思う。中学校、高校と深夜のラジオを聞いて、多くの時間を過ごした。

 「ヤングタウン」火曜日のラジオパーソナリティーでもあったチャゲ&飛鳥は、1979年のデビュー当時はナイーブな若きフォークデュオだった。“ゆず”のような存在だっただろうか。彼らのデビューアルバム「風舞」(かぜまい 1980年)に収録されている「冬の夜」が好きだ。

 雪が降る夜に、ギュッ、ギュッと、新雪を踏み締めながら雪の道を歩くと、この歌を思い出す。この歌を聴いていたのは中2か中3、14歳か15歳の冬。「いつか自分にもこの歌のようなことが起こるのだろうか?」 そう考えていた。

 お前の声が耳に残る こんなけだるい冬の夜は ただ音もなく降る雪に 恋の重さ感じたのです

 どちらが先に目をふせたんだったろう 二人でいることに疲れたのだろう 話すことも切れはてて 笑い一つもつらかった

 あとはだんまり ひっそり閑と 降る雪の下で 愛が冷えた

 こんなに寒い冬の夜に なんでお前を思いだしたのだろう お前の笑顔 お前のくせ お前の涙 お前の嘘

 二人は深く時を分けあい すべてが二人に重なりあっていた それは心 それは夢 疲れた二人 表と裏

 あとはだんまり ひっそり閑と 降る雪の下で 愛が冷えた

 あとはだんまり ひっそり閑と 降る雪の下で 愛が冷えた

2018年1月29日 (月)

雪国の矜持

201801304 この冬はこれまで3度ほど大型の寒波が到来した。道路の凍結で、生活に支障が出た日もあったが、単純に積雪量だけをとってみれば「平年並み」の部類だろう。ニュースなどでは、「厳冬・平年並み・暖冬」と表現される。厳しい冬か、平年並みかを測る基準は平均気温なのか降雪量・積雪量なのか。人それぞれ寒さを感じる基準が違うから、厳しい冬かどうかの区分は難しい。

 「暖冬」という言葉は、昔はなかった言葉だと思う。関東や雪がめったに降らない地域には暖冬があるかもしれない。しかし、雪国に暖冬など存在しないのではないか。暖かくはないが比較的寒さが緩い冬はある。その意味で「緩冬(かんとう)」という表現はどうだろう。

 統計値を調べ、眺めてみても一概に少雪化傾向とは言えない面がある。しかし、降雪量・積雪量は減っているように感じる。以下に記すような光景を見ることがなくなったからだ。

 実家は市の中心部と駅を結ぶバス通りに面している。1970年代。地方の小都市とはいっても、その道は重要な幹線道路だった。幹線道路だから消雪パイプが敷かれていたが、大雪が降るとその消雪能力は追いつかなくなった。すると道路は降雪と除雪車によって歩道に寄せられた雪と屋根からの雪下ろしの雪で覆い尽くされた。車線が1車線になることが珍しくなかった。

 車がすれ違うことも困難な時、人はその合間を縫うように歩いた。道と家の間には、時に2㍍ほどの雪で出来た壁ができることがあった。家の玄関先、幅1㍍ほどは家人が出入りできるように、どの家も除雪した。雪壁の道を行く歩行者は、車が来ると誰かの玄関先の通路に身を寄せた。そこで車に追い越させると、また道に出て歩いた。

 除雪のための体制、公的な予算、除雪人員や重機がふんだんにあったわけではない。雪国に暮らせば、雪の不便や困難は、ある程度は自助努力で解決し、乗り越えるというのが“雪国人の矜持”だった。

 北陸や佐渡で、水道管の凍結や破裂によって大規模な断水が続いている。雪国人の矜持を思い起こしたい。雪国人は雪からは逃れられない。

2017年9月 5日 (火)

感傷的な懐古

Dsc_0481 時の流れは止むことがない。時代はゆっくりと移り変わり、その変化を明確に感じる時、記憶の中にある“あの頃”と、まるで違う景色の中にいることがある。

 見附の「レストラン志なの」(新町)が店を閉めたと聞いた。店の前を通ったら、確かにひっそりとした佇まい。特徴的だったオレンジのサイン看板とガラス戸の料理ディスプレイの灯りが消えていた。昭和40年代に見附で少年少女時代を過ごした人は、初めて食べた洋食が「志なの」であった人は多いと思う。写真は昨年、いつかブログに記したいと店構えを撮影したもの。

 同じく「椿食堂」(学校町)も閉店したと聞いた。駅と市街地を結び、市役所と図書館や病院をつなぐ道が交差する場所にあった。遠い記憶の中では、最初の店は見附小学校の西門前、倉井家具店の前にあった。小学生の頃、町内の子供会で椿食堂のラーメン券をもらえたものだった。椿食堂と言えば出前。バイクの「おかもち」を、路面スレスレに疾走する姿が心象風景に残っている。 

Img_20170901_162656 飲食店に限らず、商売は業績の良し悪しが事業存続の条件になるが、今では跡継ぎの有無が最大のポイントといってもいい。2代目、3代目への代替わりといった個人的な事業承継だけではなく、社会的に事業を継承していく仕組みが、もっと簡易に選択できるようになれば、先人が築いた食文化の遺産や意志を後に遺すことができると思うのだが…。単に感傷的な懐古に囚われているだけだろうか。

 町並みが記憶の中にある“あの頃”と変わっても、あの場所に「志なの」があったこと、この場所に「椿食堂」があったことを忘れないでいようと思う。自分がこの世界の景色からいなくなるまでは。